武田氏の家臣団と身分・役職
1.筆頭家老と「両職」
 ~武田氏の「両職」~
 


 二人の職
武田氏においては「両職」という2名からなる筆頭家老がいたというのが通説である。そのふたりとは、板垣信方と甘利虎泰であったという。
文化11年(1814)に、寛政の改革で著名な松平定信の命令で編纂された甲斐国の百科事典「甲斐国志」によると、「両職とは、板垣・甘利二氏が務めたことは両氏の人物伝に詳しく記した。『甲陽軍鑑』には原虎胤がしばらく欠員を補ったが、その次は山県昌景一人が務めたと記している。しかし両職または両奉行と呼ばれる役名なのだから、一人というのは信頼できない。国を治めるトップとして最も重い任である。なお、本来は守護「職」の呼び名、室町時代には三管領四「職」と呼んだことを踏まえている。古文書を検討すると、山県昌景が一人で出していることもないことはないけれども、原昌胤と連名である。山県昌景戦死後は、原昌胤に長坂釣閑斉または跡部勝資が連名をしている」とある。そして板垣信方の項目を見ると、「検討するに武田家の職とは国を治める「主吏」である。この時代は板垣・甘利を両職とした。子息弥次郎(板垣信憲)の代まで務めた」と記される。
 事実誤認だらけ
ここには、いくつか事実誤認がある。まず、板垣信方と甘利虎泰が「両職」に任じられたという史料は「甲斐国志」自体が初見である。信方・虎泰の子息である板垣信憲・甘利昌忠は、信玄から「両職」と呼ばれているから、それをさかのぼらせて、父親もそうに違いないと考えたのだろう。なお、板垣信方は、信濃諏訪郡支配を任されて甲府を離れている。このため、「甲斐国志」は内政のトップである「両職」と諏方郡司・上原城代という地方行政官の立場を両立させることができずに苦しんで、諏方上原城代になった事実を否認した。板垣信方はこの当時は初代諏方郡司・上原城代で間違いなく、「甲斐国志」編纂者は自分の主張を押し通すために、事実を捻じ曲げてしまったのである。
また、原昌胤は山県昌景とともに、長篠合戦で戦死している。したがって、山県戦死後に跡部・長坂と連名で文書を出すことはできない。また、そもそも連名で文書を出していることをもってして、「両職」であるとどうして言えるのか。




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