武田氏の家臣団と身分・役職
1.筆頭家老と「両職」
 ~武田氏の上克下~
 


 家宰跡部氏
武田氏の場合は、寛正6年(1465)に上克下が起きた。当時の武田氏の家宰は跡部氏で、守護を上回るほどの権勢を誇っていたとされる。ただしこれについては、武田信昌が勝利してから成立した評価であり、鵜呑みにはできない。
当時跡部氏に求められていたのは、鎌倉府直轄下にある甲斐武田氏を、室町幕府よりに動かすことであった。鎌倉府は室町幕府の出先機関でありながら、たびたび征夷大将軍の座を狙っており、反復常ならぬ存在だったのである。そこで、鎌倉府管国のなかで一番西に位置する甲斐武田氏を、幕府寄りにしようという動きがあり、跡部氏はそれに沿って活動していたものと思われる。跡部氏が武田信昌の命令を聞かないという話は、「鎌倉大草紙」という鎌倉府の歴史を綴った書物に記されている。跡部氏の立場は反鎌倉府なのだから、同書では悪く書かれても仕方がない。
 脆弱な守護武田氏
武田氏は上杉禅秀の乱という鎌倉府の内乱で叛乱側に荷担し、当主信満は応永24年(1417)に木賊山で自害に追い込まれた。その結果、嫡男信重は京都に30年間も亡命する羽目になり、将軍が帰国を命じても「帰国すれば殺される」と訴えて受け入れようとはしなかった。したがって、鎌倉府管国でありながら、在京守護と同じ状況が生じていたのである。信重の帰国は、幕府と鎌倉府との緊張が高まり、幕府と信濃守護小笠原氏の軍事支援が得られた永享10年(1438)までくだる。跡部氏は、実は信濃佐久郡の氏族である。だから小笠原氏が、信重帰国の地ならしとして、甲斐の政情を安定させようと送り込んだ家臣と考えられている。
しかし信重の死後、家督を継いだ信守はわずか5年で早逝し、幼主信昌を抱く武田氏権力は、再び不安定なものになった。このような状況を考えると、家宰跡部氏が甲斐支配のほぼ全権を担っていたことは事実のようである。
 武田信昌による上克下
甲斐の人々は脆弱な守護武田氏よりも、家宰跡部氏の力量に期待していたのだろう。中世の人々は、「この人の証文があれば間違いない」という相手を選んで安堵状(権利の保証証文)を出してもらいに行く。弱体化した武田氏から証文を得ても、その命令を人々が受け入れるかは疑わしい。跡部氏に「文書を出して権利を安堵してほしい」という要望が集中するのは当然である。これが、跡部氏の「専横」の正体であった。
しかし成人するにつれ、武田信昌はこの事態に我慢がならなくなったようである。守護自身が甲斐を支配したい。そう考えたわけである。そうしたところ、寛正5年に家宰跡部明海が死去し、跡部景家が跡を継いだ。これをチャンスと捉えた信昌は決戦を挑み、戦いに打ち勝って跡部本家を滅ぼしたのである。
武田信昌による上克下の成功。ここに武田氏は戦国大名としての第一歩を踏み出したといえる。
ここで問題が生じる。家宰を排除、または家宰が成りあがって成立した戦国大名には、ナンバー2はいたのだろうか、という点である。




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