武田氏の家臣団と身分・役職 1.筆頭家老と「両職」 ~武田氏の上克下~ |
当時跡部氏に求められていたのは、鎌倉府直轄下にある甲斐武田氏を、室町幕府よりに動かすことであった。鎌倉府は室町幕府の出先機関でありながら、たびたび征夷大将軍の座を狙っており、反復常ならぬ存在だったのである。そこで、鎌倉府管国のなかで一番西に位置する甲斐武田氏を、幕府寄りにしようという動きがあり、跡部氏はそれに沿って活動していたものと思われる。跡部氏が武田信昌の命令を聞かないという話は、「鎌倉大草紙」という鎌倉府の歴史を綴った書物に記されている。跡部氏の立場は反鎌倉府なのだから、同書では悪く書かれても仕方がない。
しかし信重の死後、家督を継いだ信守はわずか5年で早逝し、幼主信昌を抱く武田氏権力は、再び不安定なものになった。このような状況を考えると、家宰跡部氏が甲斐支配のほぼ全権を担っていたことは事実のようである。
しかし成人するにつれ、武田信昌はこの事態に我慢がならなくなったようである。守護自身が甲斐を支配したい。そう考えたわけである。そうしたところ、寛正5年に家宰跡部明海が死去し、跡部景家が跡を継いだ。これをチャンスと捉えた信昌は決戦を挑み、戦いに打ち勝って跡部本家を滅ぼしたのである。 武田信昌による上克下の成功。ここに武田氏は戦国大名としての第一歩を踏み出したといえる。 ここで問題が生じる。家宰を排除、または家宰が成りあがって成立した戦国大名には、ナンバー2はいたのだろうか、という点である。 |