武田氏の家臣団と身分・役職
1.筆頭家老と「両職」
 ~家宰と下克上~
 


 守護と守護大名
戦国時代より少し前の室町時代、室町幕府は各国に守護を任命し、全国の支配を任せてきた。その際、守護自身は京都に住むことを命じられた。京都から遠い国は別だが、中国・四国地方から北陸・中部・東海地方まではこれが基本である。彼ら守護は直接任地の支配はせず、京都の中央政界で活動をした。守護管国の支配は代官に任せた。これが「守護代」である。なお、家によっては守護代も在京し、「又守護代」が守護管国の支配を行った。
関東地方の場合はやや特殊で、室町幕府は敢闘そのものを直接支配はしなかった。関東8か国に伊豆・甲斐を加えた10か国の支配は、鎌倉府という幕府の出先機関にゆだねられた。鎌倉府のトップは、鎌倉公方という人物が任じられた。歴代の鎌倉公方には、初代将軍足利尊氏の子息のうち、四男基氏の子孫が代々就任した。
この場合も、各国の守護は鎌倉という関東の中央政界と関わりを持った。ただし、鎌倉在住が義務付けられていたかは議論が分かれている。この点が、室町幕府とは異なる。
 家宰の存在
有力守護ともなると、複数の国の守護職を兼帯した。その場合、守護代のまとめ役が必要となる。つまり、守護の代理人のトップということである。これを「家宰」や「執事」という。守護の家の事を司る人物という意味である。執事は幕府の役職名で用いられることもあるし、学術用語では「家宰」の使用が提唱されているため、以下では「家宰」と呼ぶようにする。
室町時代においては、守護が中央政界(京都・鎌倉)における政治、家宰が守護管国の支配の責任者という役割分担ができていた。現在で言えば、守護は国会議員と県知事を兼任し、そのうち県知事の仕事は家宰に任せるという形である。家宰は、各県の副知事である守護代を取りまとめた。これは、室町時代においては基本的にはうまくいっていたようである。
 下克上と上克下
問題が起きたのは、応仁の乱(1467~77)である。全国の守護が東幕府と西幕府に分かれて戦争をした結果、幕府の求心力は大きく低下した。守護も、とても京都に詰めている場合ではなくなってしまった。守護管国において、東幕府に味方した勢力と、西幕府に味方した勢力が戦争を始めており、それを収めなくてはならなかったからである。その際、京都で国政に携わることは、ほとんど無意味だった。関東でも同様で、「享徳の乱」(1454~82)という大規模な内乱が起きた。こちらでは、鎌倉公方自身が鎌倉を去ってしまう。(古河公方)守護は京都・鎌倉を去り、守護管国へ下っていく。
こうして、守護は管国の守護所に常駐することになる。ここで軋轢が起きた。今まで守護管国の支配は、家宰にほぼ一任されていた。家宰は家臣同士や他の守護の家臣との間で起きたトラブルを解決し、税金の徴収、軍隊の動員まで担っていた。そこに守護が現れて、直接支配するようになったのである。家宰としては当然面白くない。
そこで、守護と家宰が衝突したのが、戦国初期の状況であった。家宰や守護代が勝利した場合は下克上である。家宰でも守護代でもないが、守護斯波氏の宿老であった朝倉孝景が越前で戦国大名化したのが一例といえる。
逆の場合も存在した。むしろ、こちらの方が多いかもしれない。守護が家宰・守護代を滅ぼして、権力を掌握するというパターンである。下克上の反対なので上克下という。戦国時代とはいえ身分社会であったので、上克下の方が成立しやすかったのである。逆に言うと、下克上は珍しいから目立ったのかもしれない。
こうして成立するのが「戦国大名」である。下克上にせよ、上克下にせよ、対抗勢力を打ち破り、自分だけがトップという権力を構築したということである。もちろん、これは戦国大名成立の一つのパターンに過ぎず、毛利元就や徳川家康に代表されるように、国衆から勢力を拡大して戦国大名化した事例も多い。




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