1・坂本龍馬の魅力 龍馬という存在 |
一介の脱藩浪人に過ぎない |
坂本龍馬は、明治維新という日本史上最大級の変動の歴史の一つとみられる時代に、最大級の功労者として語られる事が実に多い。明治維新期において活躍した人物には、京都朝廷や江戸幕府、そのほか薩長土肥の西南雄藩の革新的な志士たち、これに対抗する東北諸藩をはじめとする佐幕藩の面々など数多くいるが、その一人に坂本龍馬も列せられて語られる。だが龍馬は、三条実美や岩倉具視のような京都朝廷の公家ではなく、勝海舟や小栗上野介のような江戸の幕臣でもなく、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の吉田松陰や高杉晋作、あるいは同郷土佐の後藤象二郎や板垣退助、肥前佐賀の大隈重信や江藤新平らのように雄藩をそれぞれバックに活動した藩士とも言えない。土佐を脱藩した一介の浪人である。 だが、一介の浪人であるがゆえに、坂本龍馬は彼だけに許される自由があった。脱藩浪人だったからこそ藩の保護もなく、生活の保障もなかった。それ故に生活の道も求めなければならないし、時には生命の危険に身をさらさねばならなかった。そんな立場で国事に奔走することになった。時には死生の線を超えなければならなかった。苦難の道ではあったが、彼はあえてその道を選んだ。もっとも彼は、そのことを困難とはさして思わなかったのかもしれない。彼に抱くイメージは、暗く陰惨な苦難のそれよりも、明るく自由闊達に各地を駆け回る奔放さ、ではないだろうか?伏見寺田屋で九死に一生を得たのも、京都近江屋で資格の襲撃を受けて不慮の死を遂げたのも、その身の不安定さからくるものであるが、いわゆる暗さ、陰惨さを私は感じない。彼が訪れた場所、彼ゆかりの場所は全国各地に実に多い。成人してから、私が住んでいる三浦半島にも彼と関係するものがある(妻のおりょうが住んだこともだが)くらいである。その行動力たるや、暗い幕末の世相にあって、他の志士や幕末に関係した人間たちとは一線を画したほど明るく闊達な感じがするのである。だからこそ、多くの人間が坂本龍馬という人間に魅了されるのだろう。 だが、現在の我々がイメージする坂本龍馬が、果たして本当にそのような人物だったのかどうか?司馬遼太郎氏の「龍馬がゆく」の印象が圧倒的に強く、私もそれを信じたい側の人間である。が、真実は小説とはまた別物である。史実に残る龍馬の事績からでも、破天荒で劇的な人生ではあろうが、その劇的さも含めて、もう少し真実に迫る必要があるはずだ。 |
武芸者としての龍馬 |
坂本龍馬は幕末剣客の一人としても後世に伝えられている。だが、剣客として本当に強かったのだろうか?伏見寺田屋での活躍や京都近江屋での壮烈な最期など、実にドラマティックに伝えられているが、もし本当に強かったのであれば、あんなにあっけなく斬られるはずがないではないかという向きもある。 北辰一刀流千葉定吉門下にいた龍馬であるが、彼は北辰一刀流の他に小栗流和術を修業している。龍馬はその師匠の日根野弁治から「小栗和流兵法事目録」を伝授されたのが嘉永6年(1853)3月、翌安政元年閏7月には「同流兵法12か条・同25か条」を伝授。さらに文久元年(1861)10月には「同流兵法3か条」の免許を受けた。これでみると、武芸に関する限りではむしろ北辰一刀流剣術より小栗流和術に年期をかけたようだ。 なお、文久2年(1862)正月、長州萩の修行館で少年剣士と立ち会って、3本とも打ち込まれた。知人が不審に思うと龍馬は弁解もせず「拙者が弱いから負けたのだ」とあっさり答えたそうだ。また、江戸で和術家信田歌之助(水戸藩士)を訪問、指南を求めた。三度まで首を絞められて失神したが、蘇生すると「先生もう一度」と稽古を求めるので歌之助も「もうよいではないか」と閉口したという。いずれも伝承の域を出ないが、龍馬の側面を語るものであろう。 かつては佐久間象山の様式砲術門下生となっているし、勝海舟のもとで海軍術を修業している。こうしてみていくと、坂本龍馬という人は一芸を究めるというよりも、いろいろ興味を持ったものをかじってみようというタイプのように思える。明治維新で活躍した龍馬を一武芸者、一兵学者の枠にはめて論じることは至難なことである。もっと大きな視点から、坂本龍馬という人物は語らなくてはならない。 |
思想家だったのか |
坂本龍馬を先進的な思想家として評価する向きもある。それは、日本を近代国家への道に進展させるために立憲議会説を提唱した先駆者として、「船中八策」をとりあげる。だが、龍馬はそれに相当する思想家と言えるのだろうか?少なくとも彼が独自に、独学にてそういった思想を産んだとは到底思えない。 文久2年(1862)3月の脱藩時に、友人の平井隈山が在京の妹かをに送った手紙には「龍馬は人物だが、書物を読まないから時々間違えることが多い」という内容の文章を書いている。読書人ではなかった龍馬が、常識的にみるとしばしば間違った行動に出るのである。奇想天外な非常識なことを考えたり行ったりすること自体、龍馬の本領なのだが、脱藩にせよ、浪人してからの行動も一般には意外なことが多かったらしい。攘夷派でありながら西洋式の海軍論をやって神戸海軍操練所創設に奔走したり、討幕派でありながら戦争を否定し将軍の政権奉還論を提唱、立憲議会制度を考えて、有名な「船中八策」を起草する。いったい何を考えてどうやろうとするのか。古くからの友人たちでさえも目をみはるばかりである。その間違った発想とか行動が龍馬の本領だったのである。将軍の政権奉還後も、龍馬は「世界の海援隊」建設を放言し、北方開拓論を急務としてその実現に執心した。不思議な人物である。 龍馬は確かに読者家ではなかった。当時の志士たちの感覚からすれば「学問がない」龍馬とされるが、だからといって無学であると決めつけるのはどうなのか。 慶応3年(1867)の春か夏に、龍馬の書いた手紙の中に「当時天下の人物と言えば、徳川家にては大久保一翁、勝安房守、越前にては光岡八郎(由利公正)、長谷部勘右衛門、肥後にては横井平四郎、薩摩にては小松帯刀、西郷隆盛、長州にては桂小五郎、高杉晋作」とある。いずれも直接接見した当代の傑物たちである。龍馬は彼ら傑物の意見を聞き、その風格に触れて影響を強く受けて自己の指針としたのである。いわゆる「生きた学問」を彼はしたのだ。その優れた理論の実践を彼なりに試みたのである。龍馬の本領はここにある。理論的では決してないが、行動を実践する彼の中にこそ、現代の我々が魅了されるものがあるといえよう。 |