武田氏の家臣団と身分・役職
1.筆頭家老と「両職」
 ~大名が生み出す「筆頭家老」~
 


 板垣・甘利氏の世代交代
さて、板垣信方・甘利虎泰の両名は、天文17年(1548)の上田原の戦いで、ともに討ち死にをしてしまった。信玄の生涯の中で二度しかないとされる敗戦のひとつである。これにより、板垣・甘利氏の家督は子息信憲・昌忠が継承した。
ここで信玄が、両名を「職」に任じたため「両職」と呼ばれたわけである。信玄は、まだ若年の板垣信憲に不安を感じたのだろう。信玄は信憲に諏訪郡司の地位をすぐには継承させずに甲府に召喚し、板垣信方のもとで働いていた長坂虎房を諏訪郡司に抜擢した。信憲が「職」に任じられたのはそのせいであろう。さらに信憲だけを「職」に任ずることも躊躇し、甘利昌忠も同時に「職」に任じたのである。
ここに、家格が同等ではないはずの板垣信憲と甘利昌忠がそろって「職」に任じられていることに注意したい。この段階においても、板垣信憲が「信」の字を与えられているのに対し、甘利は「昌」字偏諱を受けているに過ぎないからだ。
ここからは信玄が、意図的に甘利氏の地位を引き上げ、筆頭家老板垣氏と同等に扱おうとしたことが伺える。さらにこの後、板垣信憲は父の跡を継ぐ形で第三代諏訪郡司に着任するが、ここで失政を咎められ、処刑されてしまう。信玄は、自分を支えてくれた筆頭家老板垣氏を排除したのである。(もともと、信玄は板垣信方の存在を快く思っておらず、信方死後、板垣氏の影響をそごうとしており、無理やり信憲を処刑したという見方もある)
 筆頭家老の育成
代わりに、筆頭家老の地位に押し上げられたのが甘利昌忠であった。昌忠は、板垣信方以上に幅広く外交面で活躍し、内政面では上野支配などにも関与した。その過程で、改めて「信」字偏諱を受け、「信忠」に改名したのである。これは、信玄が甘利氏の家格を上昇させたことを意味する。
信玄は、甘利氏の家格を引き上げ、筆頭家老に相応しい処遇を与えた。つまり武田氏の筆頭家老とは、大名である信玄に取り立てられるものになっていったといえる。
しかし永禄10年(1567)、甘利信忠は34歳の若さで早逝してしまった。嫡子信頼はまだ幼く、8歳であったようだ。是では筆頭家老の地位を任せることはできない。その後の信玄期の内政・外交を見るといわゆる武田四天王と言われた山県昌景・内藤昌秀(豊)・馬場信春・春日虎綱(高坂昌信)の4名や小山田信茂・原昌胤などが目立ってくるが、中でも山県昌景が突出した働きを見せている。「甲陽軍鑑」においては、山県については「しょくをもつ」人物、つまり「職」に任じられていたと記している。
(余談だが、甘利昌忠は信玄の治政の中期に筆頭家老として活躍した人物であり、本来ならば信玄実弟の信繁や武田四天王と匹敵、あるいはそれ以上に称揚されてよい人物だと思う。四天王が叩き上げに近いのに対して、昌忠は家柄も比較的よく、実力が本当に四天王らに匹敵するものかどうかは不明かもしれないが、残している実績などからすれば、決して見劣りするものではあるまい)
 世襲より実力を重んじる戦国期
武田氏における筆頭家老とは、結局は代々の世襲ではなく、大名が取り立てた人物に変化していったのである。これが、世襲によって基盤を固めた「家宰」が、大名に拮抗する権力として活動していた室町期守護権力と、戦国大名の違いといえる。武田氏では権限の大きすぎる「家宰」ではなく、コントロールの効く範囲の筆頭家老を育成することに腐心したと思われる。
しかも、山県昌景の権限範囲は、板垣・甘利両氏のそれよりも狭い。外交面を見ても、同様の権限を保持している他の重臣の存在を確認できる。信玄は複数の家老に権限を分散させる体制に切り替えることを指向しており、甘利信忠死去がその契機になったのだろう。ただしこれは、家臣側の要望に応えたものとも考えられる。武田氏の重臣層にとっても、筆頭家老だけが突出した権限を握ることは望ましいものではない。彼らも、自身を含む複数の家老による合議制を求めたのであり、大名と重臣層の利害はここに一致を見たといえる。(徳川家康が、信玄を範に求めたのもこのあたりにあるといえる。結果的に権力を分散することによって江戸幕府は特定の人間に権力が集中することなく、よって260年の命脈が保てた最大の要因となったと思われる)
越前の戦国大名朝倉氏の分国法「朝倉孝景条々」は、「朝倉の家においては高老を定めてはならない。能力と忠節によって起用すること」という条文から始まる。ここでいう「高老」とは宿老、つまり家老の中の家老を意味し、宿老の家柄に生まれたからと言って、無条件で家老に起用することを戒めた条文である。戦国期に突入する段階で、飛び抜けた権限を持つ「家宰」と大名の相克は、他の重臣を巻き込む形で、幅広く存在したものと考えてよいのではないだろうか。
(陶晴賢が大内氏に反旗を翻し実権を握った例はまさに「家宰」と「守護大名」の争いの結果といえよう)




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