武田氏の家臣団と身分・役職 1.筆頭家老と「両職」 ~治安維持と法の維持~ |
他にもう一カ所「甲陽軍鑑」の記述を見てみる。「石水寺物語」という、信玄や武田氏重臣の目を通じて語らせた教訓集のような部分である。なお「石水寺」とは、躑躅ヶ崎館の詰の城である「積翠寺城」のことであろう。 ある時、馬場信治が言った。信玄公の人使いは、何とも常人には理解が及ばないものだ。というのは、「しょく」を持ち、裁判を行う人物には、物の本を読み、物を知って、何とも如何にも慈悲深く温和な人の役割かと思えば、一昨年、原虎胤という大変武勇に優れた荒々しい人物に、「しょく」を仰せつけられた。これは不可解だといったのは、私だけでなく、皆あれこれ噂をした。ところが、結局この原虎胤は、何ともよい仕置きを行った。しかしながら虎胤を裁判にかかりきりにさせては、各地の国境の守りや武士道の御用に欠けるということで、奉行を解任したところ、その後しばらく2~3か月も「しょく」は定まらなかった。これは虎胤殿ほど、裁判の理屈に通じ、人を処罰できる人はないためだった。ということは、信玄公の人使いの御工夫が浅からざるからこそ、このようなことになったのだ。 どうやら、「しょく」は治安警察権だけではなく、裁判権も保持していたらしい。なおこれが、「甲斐国志」において原虎胤が「職」と記された根拠である。
罰金の事は、春日虎綱の生前に定め置いた。諸奉公人の罪を穿鑿なされ、御許しになる時、罰金をその罪の分量によって課す事がある。この罰金は「ほうしょく」へ納められ、御中間・御小人、あるいは新衆(新参の武家奉公人)等の給分になる。また出陣中の罰金は、目付・横目衆が受け取り、御武者奉行・御旗奉行へ納める。是も御中間・御小人・御道具衆に宛がわれる。さてまた、侍衆が自身の所領の百姓の年貢・諸役などについて、悪事を働くことがあれば、罰金を支払って地頭に謝罪しなさい。ただし御国法に背いた際には、大まかな罪で許し、罰金を支払わせる場合は、これも「御しょく」へ進上すること。決して自分のものにしてはならない。 「甲陽軍鑑」には珍しい、法律について記した部分である。罰金の徴収について定めたという記述で、平時については「ほうしょくに納めよとある。漢字を充てれば「法職」になろう。後半にも「御しょく」と出てくる。ここでも、罰金の納入先となっている。 どうも「しょく」は、「ほうしょく」と呼ばれることがあり、罰金の徴収などにも関与することがあるようだ。と考えると、武田氏の分国法である「甲州法度之次第」に「職」が出てくることが目に付く。何と第一条に出てくる、最重要条文となる。
ここでは、明確に「職」が治安・警察の担当者として出てくる。つまり武田氏における国を治める最高の重臣という「両職」のあり方は「甲斐国志」が生み出した幻想なのである。また「両職」という呼称も、たまたま板垣信憲・跡部昌忠の両名が同時に「職」を務めたための呼称に過ぎない。むしろひとりであるのが普通であった。 「職」=「しょく」とは、大名から治安警察権と、裁判権の一部を委ねられた存在といえる。こうした「職」の用い方は、武田氏滅亡後、その職制を踏襲した真田氏においても確認でき、武田領国では一般的な用法であったと思われる。 もっとも、守護出身の武田氏にとって、治安警察権の持つ意味は大きい。鎌倉幕府以来、守護の基本的権限である「大犯三カ条」の柱は、治安警察権にあるからだ。その意味では、治安警察権を委託された「職」は、重臣中の重臣と呼べるかもしれない。 しかし、信玄が原虎胤を任命したという逸話が事実であれば、これは過大評価となる。原虎胤は、他国者の新参家臣で、足軽大将という中堅指揮官に過ぎないからである。 |