西洋美術史
 ~ローマ美術~
 


 エルトリア美術
エルトリア人は信心深いことで有名で、ローマ時代の哲学者セネカは「エルトリアは迷信の生みの親である」と言っている。美術品の多くは葬祭に関するもので、豪華な副葬品が多く残っている。
エルトリア美術とは、イタリア半島のトスカーナ地方を支配していた土着民族の文化で、ローマが繁栄する以前の紀元前8世紀から、ギリシャ文化の影響を受けて発達したと思われる。
地下の墳墓の壁画には、宴会・舞踏・競技等の現世的・享楽的な画題が選ばれ陰鬱さがまったくない。陽気なイタリア人の祖先エルトリア人は、来世に対しても陽気な考え方だったようだ。また鳥・動物・植物も描かれ、エルトリア絵画独自の自然主義があらわされている。
エルトリアでは石造彫刻の遺品があまり多くないが、テラコッタ像は発達していた。それは重厚で力強い体を持ち、理想化されず人体比例を無視している点でギリシャ美術とは異なる様式を持っていた。また、「ブルータス像」のような青銅像には写実的表現が見られ、ローマに引き継がれていく。
 ギリシャの芸術を引き継いだローマ
ローマ人は初めて西欧世界を統一し、広大な領土を持つようになる。彼らは建築や土木技術に優れ、水道橋、大浴場、コロッセウム、凱旋門などが都市計画とともに造築された。
だが、美術に関しては先住民族であるエルトリア人の美術をもとに、ギリシャの模倣・継承をした。それは紀元前3世紀以降に占領したヘレニズム諸都市から戦利品としてローマに持ち込まれた大量のギリシャ美術品をもとに多くのコピー彫刻がつくられたからである。
だが、ローマ人独自の美術がまったくなかったというわけでもない。特に歴史浮彫彫刻と肖像彫刻の二つの分野においては、現実的で写実的な造形表現を見ることができる。歴史浮彫は戦争や祭儀など、皇帝の事跡を誇示する役割がある。記念碑的(モニュメンタル)な性格が強く、現実の出来事をそのまま物語るので、細部はどこで誰が、何をどうしたという、具体的な内容に満ちている。肖像彫刻は先祖の像や皇帝像がつくられ、一族の信仰の対照や皇帝崇拝のために用いられた。そのため多少の美化はあっても、個人的な容貌の特徴が克明に表されていることが多い。

 帝政末期
「軍人皇帝時代」と呼ばれる帝政末期(3世紀中頃)になると表現に変化が表れる。主要人物を強調して大きく表したり、肖像彫刻では図式化され目のみ強調する等表現主義的な要素が見られる。4世紀にはコンスタンティヌス大帝の凱旋門のように民族的な単純さや率直さが表されている。絵画では室内装飾として描かれたボンペイ遺跡の壁画が優れた表現を残している。石の壁を模したり、壁に窓を描いたり、まるでだまし絵のように考えられたインテリアには驚かされる。
また、ローマ支配のエジプトでは、エンカウスティックによる写実的で個性的な肖像画が描かれた。






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