巨大組織「陸軍」暴走のメカニズム ~陸軍刷新を目指す~ |
3人は、日露戦争当時から進歩が見られない陸軍装備の近代化をはじめ、山県の息がかかった守旧派の上層部の一掃、国民と軍が乖離している現状の改革の必要性を論じ合った。話題は自ずと祖国の立ち遅れに集中し、国を憂える将校たちの危機感は募る。討論の末、3人は「古い陸軍を刷新する」事に力を尽くしていくことを確認し合った。
「この現代の戦争は極めて真摯、執拗、真剣、深刻でありまして、血の一滴、土の一塊をもつくして争うようなことになり、また、科学戦があり、経済戦があり、政治戦があり、思想戦がある。現代の戦争は、本質的に国民戦であり、形式的に国力戦であると申し得ると思うのであります」「我が国は他に立ち後れをしていたしております」(永田鉄山「国家総動員」) 報告書の中で、繰り返し総動員体制を急げと訴える永田。その思いの根底にあったのは、大戦後の世界に対する冷静なリアリズムだった。 「カントの言葉を借りて申上げるならば、永久平和というものは永遠に来ないであろうが、しかしながら人類はそれがあたかも来るものであるかの如く行動せねばならない。平和を理想とするものが、それに憧憬し、それを現実にするが如く努力するのは、まさに其のとおりでありましょうが、その達成は人が神にならぬ間は、長時間的の問題であろうことを覚悟しておらねばならぬと思うのです。」(永田鉄山「国家総動員」) 鈴木貞一は、永田についてこう語っている。 「広い目で世の中を見て多少改革もやらなくちゃいかんという考えをもっておったのは永田さんだけでしたからね。第一次大戦後のドイツを見て、日本を振り返ってみてね。これじゃいかんという考えを持たれた」
一方、彼らより若い鈴木貞一(22期)たちの世代も独自の勉強会グループ「木曜会」を発足させる。ここには石原莞爾(21期)らが参加。主に軍備の近代化などを語り合ったと、鈴木は証言している。そこには二葉会から永田や東条などの年長者が招かれたりと、二つの会は活発に交流しながら、意見や情報の交換を行ったとみられている。 そして、この二つのグループが事実上合わさる形で1929年に「一夕会」が発足した。16期生を中心に40人の将校が結集したエリート集団だった。 一夕会のメンバーは「軍人」という枠組みを越え、組織内で政治的な言動を繰り返すようになる。それを加速させていたのが政治の混迷だった。 普通選挙法(1925年)が施行されて間もない当時、民政党と政友会の二大政党は選挙目当ての政争に明け暮れ、贈収賄事件が相次ぐなど、国民の信頼を失いつつあったのだ。 一夕会の面々からすれば、議会政治、政党政治などというものは、私的な利益を掲げて、自分達の権力欲だけの為にやっているのではないか、そういう見方をし、「政党政治に期待しちゃだめだ」と思ったのではなかろうか。 |