巨大組織「陸軍」暴走のメカニズム
 ~陸軍刷新を目指す~
 


 永田鉄山
永田鉄山は軍事研究のため、6年間ヨーロッパに駐在した。そこで第一次世界大戦を目の当たりにし、陸軍改革への思いを募らせた。彼が同期の中間と密会したとされる建物が今も残されている。温泉が出ることで知られる南ドイツの保養地バーデン・バーデンに建つ「ステファニー・ホテル」である。1921年10月27日、このホテルの一室に、永田とロシア駐在武官の小畑敏四郎少佐、欧州出張中の岡村寧次少佐の3人が集まる。彼らはみな陸軍士官学校第16期卒業の同期生で、出征経験のない「戦後世代」である。大正デモクラシーという「厭戦」気分の空気の中でそのキャリアをスタートさせた、特に優秀な将校達であった。このとき、彼らは何を語ったのか。
3人は、日露戦争当時から進歩が見られない陸軍装備の近代化をはじめ、山県の息がかかった守旧派の上層部の一掃、国民と軍が乖離している現状の改革の必要性を論じ合った。話題は自ずと祖国の立ち遅れに集中し、国を憂える将校たちの危機感は募る。討論の末、3人は「古い陸軍を刷新する」事に力を尽くしていくことを確認し合った。
 国家全体での総力戦の必要
彼らがヨーロッパで目にした第一次世界大戦には、戦車や戦闘機などの近代兵器が導入され、大量殺戮が可能となっていた。また、それまで当たり前だった短期決戦ではなく、国家同士がすべての資源を投じ、ぶつかり合う、いわば「総力戦」が戦争の形態となっていた。視察を終えて帰国した永田は、日本も総力戦に向けた戦争準備を急ぐべきだと報告する。それは、国内産業を軽工業中心から重工業へ転換するなど、国家全体の改造を求める急進的なものだった。
「この現代の戦争は極めて真摯、執拗、真剣、深刻でありまして、血の一滴、土の一塊をもつくして争うようなことになり、また、科学戦があり、経済戦があり、政治戦があり、思想戦がある。現代の戦争は、本質的に国民戦であり、形式的に国力戦であると申し得ると思うのであります」「我が国は他に立ち後れをしていたしております」(永田鉄山「国家総動員」)
報告書の中で、繰り返し総動員体制を急げと訴える永田。その思いの根底にあったのは、大戦後の世界に対する冷静なリアリズムだった。
「カントの言葉を借りて申上げるならば、永久平和というものは永遠に来ないであろうが、しかしながら人類はそれがあたかも来るものであるかの如く行動せねばならない。平和を理想とするものが、それに憧憬し、それを現実にするが如く努力するのは、まさに其のとおりでありましょうが、その達成は人が神にならぬ間は、長時間的の問題であろうことを覚悟しておらねばならぬと思うのです。」(永田鉄山「国家総動員」)
鈴木貞一は、永田についてこう語っている。
「広い目で世の中を見て多少改革もやらなくちゃいかんという考えをもっておったのは永田さんだけでしたからね。第一次大戦後のドイツを見て、日本を振り返ってみてね。これじゃいかんという考えを持たれた」
 「一夕会」結成
そして永田らは、独自の勉強会を始めた。「二葉会」と名付けられたその会は、永田ら陸軍士官学校16期生を中心とした軍人たちが集い、陸軍の改革や時事問題などを積極的に語り合う会だった。永田、小畑、岡村の他に、同期の板垣征四郎、土肥原賢二、一期下の東条英機、さらには二期下の山下泰文などが参加している。
一方、彼らより若い鈴木貞一(22期)たちの世代も独自の勉強会グループ「木曜会」を発足させる。ここには石原莞爾(21期)らが参加。主に軍備の近代化などを語り合ったと、鈴木は証言している。そこには二葉会から永田や東条などの年長者が招かれたりと、二つの会は活発に交流しながら、意見や情報の交換を行ったとみられている。
そして、この二つのグループが事実上合わさる形で1929年に「一夕会」が発足した。16期生を中心に40人の将校が結集したエリート集団だった。
一夕会のメンバーは「軍人」という枠組みを越え、組織内で政治的な言動を繰り返すようになる。それを加速させていたのが政治の混迷だった。
普通選挙法(1925年)が施行されて間もない当時、民政党と政友会の二大政党は選挙目当ての政争に明け暮れ、贈収賄事件が相次ぐなど、国民の信頼を失いつつあったのだ。
一夕会の面々からすれば、議会政治、政党政治などというものは、私的な利益を掲げて、自分達の権力欲だけの為にやっているのではないか、そういう見方をし、「政党政治に期待しちゃだめだ」と思ったのではなかろうか。




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