巨大組織「陸軍」暴走のメカニズム
 ~山県有朋が創った陸軍~
 


 一夕会メンバー
国家を戦争へ導いたといわれる巨大組織。大日本帝国陸軍。明治維新に伴って創設された陸軍は、藩閥主導による近代国家形成の一役を担う組織として、当初フランス式、のちドイツ式にその範を求めて力を蓄え、軍隊としての形を作ってきた。列強が世界を動かす中、日清・日露の戦争で経験を積み、その戦力を高めていく。
その陸軍組織に変質が兆し始めたのは、太平洋戦争開戦の20年ほど前。端緒となったのは1921年、ドイツのバーデンバーデンにあるホテルの一室で行われた3人の若き日本人将校による会合だった。
彼らが視察した第一次世界大戦における圧倒的な破壊と殺戮。遥かに遅れを取る日本の現実に危機感を抱いた3人は、帰国後、同志を募る。会の名前は「一夕会」。古い体質の陸軍を刷新するという改革の理念に共鳴したエリートたちによって組織された勉強会だった。
しかし、その改革は思いもよらない結果を導いていく。1928年、張作霖爆殺を主謀した河本大作。31年、日本が国際社会から孤立するきっかけとなる満州事変の責任者となった石原莞爾、板垣征四郎。37年、日中全面戦争の戦端を開くこととなる盧溝橋事件に関与した牟田口廉也。そして、41年、太平洋戦争開戦時の首相・東条英機。何れも一夕会のメンバーだった。
合理的な改革を目指したはずの彼らは、何故無謀な戦争へと向かっていったのだろうか。戦争に至った理由を、残された資料などから浮かび上がってくるのは、「派閥抗争」「肥大化」といった巨大組織特有の負の側面だった。
 誤算に次ぐ誤算
大日本帝国陸軍は、戦前最大の官僚組織である。満州事変後、日中戦争、太平洋戦争と組織の膨張を繰り返し、日本という国家を戦争へ引きずり込んだ元凶、主犯とも言われてきた。しかし、資料から浮かび上がってくるのは、戦争への道を陸軍が一丸となって一糸乱れずまっしぐらに進んだということではなく、いくつかの誤算が重なり合って戦争へと進んでいったという事実である。また、陸軍内部にも無軌道な組織の膨張や戦争の危うさを認識していた者も少なくなかったことがわかってきている。
戦争への道を検証するにあたって最初に着目すべきは、1920年代に起きた陸軍内部の改革運動である。そもそもこの運動は何故起こったのだろうか、それは陸軍の組織にどういう影響を与えたのだろうか。
陸軍組織を知る上で鍵となる人物が、戦後A級戦犯となった鈴木貞一元陸軍中将である。対米開戦責任者と一人として終身刑を言い渡され、戦後10年間服役し、出所後は100歳で亡くなるまで千葉県山武郡で過ごしたという。鈴木は帝国陸軍が変質を始める1920年代から、陸軍の中枢を渡り歩いてきた。いわば、陸軍の歴史的転換の現場を目撃した人物といえる。
鈴木が保持していた資料には、御前会議で報告する原稿など、鈴木が陸軍の転機となる多くの場面に立ち会っていたことが伺えるものが残る。
 山県有朋の陸軍を変えたい
また、鈴木の手には戦後に録音された自身の肉声テープもあり、そこでも改革の始まりについて語っている。
そこには、日本陸軍というものは、ほとんど山県有朋がやってきたもので、山県の意見が参謀総長や陸軍大臣に内々に伝えられ、そして進められていったという。大部分の人間はほとんど勉強しておらず、山県という人物がいて、その手先のように働いたのが実態だという。つまり、目を開いて物をやるということが無く、下の方も永田のような優秀な人から見ると、実に馬鹿らしいということになるという。
言うまでもなく、山県有朋は日本陸軍の生みの親であるといってもよく、明治から大正にかけて「元老」という立場から陸軍全体を俯瞰し、睨みを利かせてきた。その元老が支配する古い組織に疑問を抱いていたのが永田鉄山なのだという。その明晰な頭脳から「永田の前に永田なし。永田の後に永田なし」と言われた陸軍きっての逸材である。




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