乱前夜
 ~畠山政長の擁立~
 


 足利義政の無定見
この時期の将軍は足利義政であった。嘉吉3年(1443)、将軍足利義勝がわずか10歳で病没すると、義勝の弟三春(8歳)が後を継いだ。文安6年(1449)4月、三春は14歳で元服し、征夷大将軍に任命された。これが足利義政である。
将軍就任当初は管領が政務を代行していたが、次第に義政は自分の政治的意思を発揮するようになる。細川氏が山名氏と提携すると、畠山持国は足利義政に接近した。このため、享徳3年(1454)に勃発した畠山氏の御家騒動において、義政は持国・義就を支持し、持国の求めに応じて弥三郎討伐の命令を出している。
ただ、義政の持国・義就支持は不徹底であり、8月21日の武力衝突の際には、諸大名を動員して将軍御所を守らせただけであった。28日に持国が隠居し、弥三郎の勝利が確定すると、弥三郎と面会し、家督相続を認めた。また、弥三郎討伐の命令も撤回している。義政はその時々の情勢に流される傾向があり、その優柔不断さが混乱に拍車をかけた。とはいえ、義就の没落は義政にとって不本意であった。9月10日、持国が西来院から自邸に戻り、弥三郎を家督と認めると、その4日後、義政は勝元に命じて、弥三郎をかくまっていた磯谷を処刑させた。
細川勝元は義政の措置に不満で、管領辞任を申し出た。この当時、家格や政治経験を考慮すると、管領を務められる人間は勝元の他にいなかった。慌てて義政は勝元邸に赴いて慰留した。
このため、義政の矛先は山名宗全に向かった。これには、義政の当時の側近が、赤松氏一族の有馬元家であったことも影響している。先年の赤松満佑討伐において大功を立てた山名宗全は赤松氏分国の大半を併呑しており、赤松氏の仇敵であった。11月2日、義政は突如諸大名を招集し、宗全討伐を命じた。勝元の取り成しで討伐は中止となり、宗全は家督を嫡子教豊に譲り、分国の但馬に隠退することになった。
 畠山家の内紛長期化する
宗全が京都からいなくなると、義政は義就を呼び戻した。義就は5,6百騎の軍勢を率いて堂々凱旋した。弥三郎は没落を余儀なくされた。持国は翌4年3月に没した。義政の一連の行動は、細川・山名に対する反撃と言えるが、畠山氏の内紛を一層複雑にしてしまった事も事実である。
弥三郎は大和へ落ちのびた。かつて持国に苦杯をなめさせられた成身院光宣がいたからである。光宣が弥三郎を受け入れたことで、大和で再び戦乱が巻き起こった。享徳4年(1455)7月、畠山義就が弥三郎討伐の為に大和に侵攻、弥三郎は大敗し、8月には筒井順永・箸尾宗信は敗走、光宣は鬼薗山城を捨てて姿をくらました。鬼薗山城は破壊された。これによって越智・古市ら義就派が復権した。
光宣の没落は興福寺にとっても危機だったが、大乗院尋尊は一乗院教玄と連携して、幕府との関係を強化し、興福寺の権益を守った。隠居の身である経覚は傍観するしかなかった。
この間、細川勝元の動きは鈍かった。勝元は、舅にして盟友である宗全の赦免を最優先課題としていたため、弥三郎を公然と支援して義政の機嫌を損ねることを恐れていたのである。
 畠山政長擁立
長禄2年(1458)6月、勝元の働きかけを受けて足利義政は宗全を赦免し、宗全は8月に上洛した。しかし政界復帰と引き換えに、宗全は赤松氏再興を了承させられた。宗全にとっては不満の残る決着で、細川勝元に対する不信感の端緒となった。
一方、畠山義就は「上意(将軍の命令)」と称して、南山城・大和で勢力拡大を進めていた。義就にしてみれば、勝元―弥三郎に対抗するための自衛措置であろうが、義政の目には無用の乱を招く行為と映った。
長禄3年正月、義政の乳母で義就を支持していた今参局が誅殺されると、義就の立場は一層悪くなった。同年5月、細川勝元の斡旋で、成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信は赦免された。7月には畠山弥三郎が赦免されたが、上洛後まもなく亡くなってしまう。そこで光宣は弟の弥二郎(後の政長)を擁立した。畠山氏の家督問題に深くかかわってしまった光宣は、今さら後に引けなかったのである。大和の混乱は、畠山氏の内訌と結びつくことで、拡大の一途をたどってしまうのだ。

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