乱前夜
 ~畠山氏分裂~
 


 筒井の覇権揺るがず
文安2年(1445)3月、畠山持国に代わって細川勝元が管領に就任すると、幕府は光宣討伐の意欲を失ってゆく。同年9月、反筒井連合軍は筒井方に敗れた。経覚は筒井方に利用されないよう、鬼薗山城に自ら火をつけ、奈良から遥か南の葛上郡の安位寺に逃れた。なお、この時、経覚が書いていた日記の大半が焼失してしまった。
成身院光宣は鬼薗山に再び城を築き、自軍の拠点とした。筒井順永は官符衆徒の棟梁に復帰し、光宣は再び五ヶ関代官に任じられた。治罰の綸旨も取り消され、勅免の綸旨が出された。
鬼薗山のふもとにある禅定院は運よく焼け残った。戦火を避けて成就院にいた尋尊は、禅定院に戻って来た。経覚に門主の地位を奪われていた尋尊だったが、ようやく自分の思うとおりに、大乗院を切り盛りできるようになったのだ。時に尋尊16歳。奇しくも経覚が大乗院門主になった年齢と同じである。
とはいえ、まだ経験不足の尋尊である。これまでの大乗院門主と異なり、前門主から必要な知識や作法を手取足取り教えてもらえなかったのだ。また、尋尊と経覚との関係は疎遠で、経覚の日記「経覚私覚●」すら閲覧させてもらえなかったのだ。
その後も筒井派と反筒井派の抗争は続いたが、筒井の覇権は揺るがなかった。文安4年4月、古市胤仙の招きを受け、経覚は奈良のすぐ南にある迎福寺に入った。筒井方に緊張が走るが、経覚には尋尊―光宣を軸とした興福寺の新体制を覆すだけの力は無かった。
 畠山家の内紛勃発
享徳2年(1453)6月、反筒井派の中核であった古市胤仙が病没した。これを契機に和解の気運が高まり、翌3年12月には経覚と光宣が対面している。かくして大和に平和が訪れるかに見えたが、新たな火種が生まれつつあった。畠山氏の分裂である。
畠山持国は、弟の持富を養子としていた。持永の同母弟である持富が持永ではなく持国を支持した事が、持国の復権に寄与したからだと考えられる。だが文安5年(1448)11月、これを撤回し、石清水八幡宮の僧侶にする予定だった12歳の実子を元服させ、後継者に立てた。翌6年4月、足利義成(後の義政)から一字を与えられ義夏(のち義就)と名乗った。宝徳2年(1450)に義夏は家督を相続し、幕府からも認められた。持富は兄の違約に反対せず、そのまま宝徳4年に没した。
しかし、義夏の母親の身分が低かったこともあり、義夏の家督継承に反対する家臣も少なくなかった。享徳3年(1454)4月重臣の神保越中守らが持富の遺児である弥三郎を家督にしようとする陰謀が発覚した。持国は遊佐国助らに神保の屋敷を攻撃させ、神保親子は戦死した。椎名・土肥らの与党も、京都から逃げ出した。
 泥沼化する畠山氏の内紛
多数の家臣が持国・義就(義夏)にそむいた理由については諸説ある。かつては神保と遊佐という、家臣同士の争いと考えられていたが、近年は、持国の人事に原因があったと指摘されるようになった。持国は、将軍足利義教の怒りを買った際、家臣たちが自分を見捨てたことを恨んでいた。そのため、河内に没落したときにつき従った側近たちを重用し、古くからの有力家臣たちの反発を買っていたのである。足利義教の恐怖政治は、15年近くたっても尾を引いていたのだ。
もっとも、このまま事態が推移していたら、持国・義就の勝利で終わっただろう。ところが、弥三郎は細川勝元に助けを求めた。勝元はライバルである畠山氏を弱体化させる好機と考え、家臣の磯谷四郎兵衛の邸宅に弥三郎をかくまった。弥三郎派の家臣たちはおのおのの邸宅から離れて牢人となり、山名宗全の庇護を受けた。細川・山名という二大大名が弥三郎についたことで、畠山氏の家臣たちは雪崩を打って弥三郎派に走った。
同年8月21日夜、弥三郎派の牢人たちが畠山持国邸を襲撃した。畠山持国は一族の畠山義忠の屋敷に逃げ込み、義就は遊佐国助の邸宅に入った。翌22日、義就は遊佐宅に火をかけ、遊佐国助・隅田左京亮とともに京都を脱出した。28日、持国は建仁寺西来院に移り、隠居を表明した。

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