乱前夜 ~筒井氏の覇権揺るがず~ |
成身院光宣から代官職を奪おうとして逆に追放された順弘派の「七人衆」は、豊田頼英を頼った。同年9月、豊田頼英が古市胤仙らと連携して奈良に攻めあがった。激しい合戦により、奈良の町は炎に包まれ、光宣は筒井城へ逃れた。その後、光宣は河内へと落ちていった。経覚は筒井氏の庶流で順永と対立する筒井実順を筒井城に入れた。 光宣に抑えつけられていた興福寺の学侶・六方は、豊田らの勝利を見るや光宣を弾劾し、五ヶ関代官職を没収した。経覚は、筒井順永に代わって小泉重弘・豊田頼英・古市胤仙を官符衆徒の棟梁とし、奈良の治安維持を命じた。 実は一連の動きの背後には、細川持之から管領職を引き継いだ畠山持国がいた。足利義教に弾圧され義教横死後に復権した持国は、自分と似た境遇の経覚に親近感を抱いており、経覚ら反筒井勢力を積極的に後押ししたのである。
同月21日、筒井順永・成身院光宣と筒井実順が合戦を行い、家臣の裏切りにあった実順は敗れて切腹した。こうして光宣は筒井城を奪還した。 焦った経覚は幕府を通じて、以前から要請していた治罰の綸旨の発給を催促し、ようやく獲得した。治罰の綸旨とは、天皇による討伐命令のことであり、光宣治罰の綸旨が出た結果、光宣は朝敵、すなわち国家への反逆者と位置付けられた。
もはや光宣の南都乱入は避けられない形勢となった。光宣の報復を恐れた経覚は、身を隠すことにした。同月28日の明け方、経覚は板輿に乗って京都に向かった。筒井方に襲われる心配もあったから、北面に加えて奈良の武士たちに警固させた。経覚は、京都の西郊、嵯峨の教法院に到着した。ここは経覚の親類の坊舎なので、匿ってもらうには都合が良かったのだ。 その後、反筒井勢力が巻き返したため、経覚は4月19日に禅定院に戻った。そして6月、ついに鬼園山に城を築くことを決意した。奈良中から人夫数千人をかき集め、経覚の陣屋、六方の陣屋、小泉重弘・豊田頼英・古市胤仙の陣屋を建て、それぞれに食糧蔵を設けた。水桶も用意した。8月10日、経覚は鬼園山城に移住し、臨戦態勢を整えた。 |