乱前夜
 ~筒井氏の覇権揺るがず~
 


 反筒井連合を動かす経覚
嘉吉3年(1443)6月、経覚は上洛して、将軍足利義勝にお目見えした。これにより経覚は大乗院門主への返り咲きを正式に認められたのである。
成身院光宣から代官職を奪おうとして逆に追放された順弘派の「七人衆」は、豊田頼英を頼った。同年9月、豊田頼英が古市胤仙らと連携して奈良に攻めあがった。激しい合戦により、奈良の町は炎に包まれ、光宣は筒井城へ逃れた。その後、光宣は河内へと落ちていった。経覚は筒井氏の庶流で順永と対立する筒井実順を筒井城に入れた。
光宣に抑えつけられていた興福寺の学侶・六方は、豊田らの勝利を見るや光宣を弾劾し、五ヶ関代官職を没収した。経覚は、筒井順永に代わって小泉重弘・豊田頼英・古市胤仙を官符衆徒の棟梁とし、奈良の治安維持を命じた。
実は一連の動きの背後には、細川持之から管領職を引き継いだ畠山持国がいた。足利義教に弾圧され義教横死後に復権した持国は、自分と似た境遇の経覚に親近感を抱いており、経覚ら反筒井勢力を積極的に後押ししたのである。
 経覚と光宣の激しい対立
翌嘉吉4年の正月、光宣の反撃が噂されるようになると、19日、豊田頼英・古市胤仙が経覚に対して、「興福寺を守るため、鬼薗山に城郭を構えたい」と申し入れた。鬼園山とは、現在奈良ホテルの敷地になっている丘陵の事である。これに対して経覚は、「城郭は確かに必要だが、鬼園山は禅定院の頭上にある。別の場所に築いてもらいたい」と返答している。要するに経覚は、鬼園山から見下ろされることを嫌ったのだ。戦略地点確保の優勢より、経覚が大乗院門主としてのプライドを先行させた瞬間ともいえる。
同月21日、筒井順永・成身院光宣と筒井実順が合戦を行い、家臣の裏切りにあった実順は敗れて切腹した。こうして光宣は筒井城を奪還した。
焦った経覚は幕府を通じて、以前から要請していた治罰の綸旨の発給を催促し、ようやく獲得した。治罰の綸旨とは、天皇による討伐命令のことであり、光宣治罰の綸旨が出た結果、光宣は朝敵、すなわち国家への反逆者と位置付けられた。
 攻防続く
勢いづいた経覚は、衆徒・国民16人に筒井城攻略を命じた。この攻略には、大乗院の北面(大乗院門主の護衛)も投入した。しかし2月26日、越智春童丸・小泉重弘ら反筒井連合軍は大敗し、古市や豊田も自分の城に引きこもってしまった。
もはや光宣の南都乱入は避けられない形勢となった。光宣の報復を恐れた経覚は、身を隠すことにした。同月28日の明け方、経覚は板輿に乗って京都に向かった。筒井方に襲われる心配もあったから、北面に加えて奈良の武士たちに警固させた。経覚は、京都の西郊、嵯峨の教法院に到着した。ここは経覚の親類の坊舎なので、匿ってもらうには都合が良かったのだ。
その後、反筒井勢力が巻き返したため、経覚は4月19日に禅定院に戻った。そして6月、ついに鬼園山に城を築くことを決意した。奈良中から人夫数千人をかき集め、経覚の陣屋、六方の陣屋、小泉重弘・豊田頼英・古市胤仙の陣屋を建て、それぞれに食糧蔵を設けた。水桶も用意した。8月10日、経覚は鬼園山城に移住し、臨戦態勢を整えた。

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