乱前夜
 ~筒井氏の内訌~
 


 筒井氏の内紛
大和永享の乱の勝者である筒井氏は内紛を起こしていた。筒井氏の惣領は、成身院光宣が擁立した筒井順弘(光宣の兄)だったが、光宣の操り人形の立場に我慢がならず、光宣と対立する。だが嘉吉元年(1441)10月5日、順弘は光宣に敗北し、縁者の立野氏を頼って落ちていった。
幕府にとって、筒井氏は大和で最も信用できる武士である。大和情勢を安定化させるためには、筒井の内紛を早期に収束することが望まれる。幕府は、順弘でも光宣でもない、第三の人物に白羽の矢を立てた。京都相国寺の僧侶となっていた順弘・光宣の弟である。10月8日、幕府は彼を筒井氏の惣領、そして官符衆徒に任命した。筒井順永の誕生である。光宣はこの措置に不満であったが、順弘に対抗するため、順永の家督継承を認めた。
 反筒井勢力動き出す
経覚や越智・古市ら反筒井勢力は、これを好機と見て筒井氏を圧迫した。興福寺は、兵庫津の南と淀川に設けられていた5つの関所である「河上五ヶ関(兵庫・神崎・渡辺・禁野・淀)」から関銭収入を得ていたが、幕府が筒井氏を河上五ヶ関の関務代官に任命したため、関銭収入の大半は筒井氏に流れるようになってしまった。この時期、代官を務めていたのは成身院光宣で、経覚は興福寺への未納を理由に光宣の解任を幕府に訴えた。ところが嘉吉2年11月1日、光宣が手兵をもって南都七大寺(興福寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺・法華寺・清水寺)を占拠したため、経覚はやむなく代官職を光宣に返還した。
だが筒井順弘もまた、五ヶ関代官の地位を狙っていた。順弘は立野一族と共に、光宣のいる弥勒院を攻める準備を進めていたが、11月11日、順永・光宣が逆に順弘の立て籠もる眉間寺を攻撃した。順弘らは敗走し、順弘等の救援に間に合わなかった南山城の木津父子や狛下司は般若寺坂の辺りで討たれた。光宣方でも山村や郡山辰巳などが戦死した。
 順弘殺害される
その後、山辺郡の豊田頼英も順弘方として北上したが、岩井川を挟んで光宣の軍勢と合戦になり、退却した。勝者となった光宣は代官職を維持し、興福寺内部の順弘派7名を処罰した。
翌嘉吉3年正月、筒井順弘は越智氏の助力を得て、筒井城に入った。光宣や順永は姿をくらました。だが翌月、順弘は一族・家臣らに背かれ、殺されてしまう。光宣の謀略であろうか。光宣・順永は筒井城に戻った。
こうして筒井順永・成身院光宣は筒井氏分裂を克服したが、彼らにとって真の敵は、反筒井勢力を束ねる経覚であった。

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