乱前夜
 ~嘉吉の変~
 


 足利義教暗殺
大和永享の乱に最も深くかかわった大名である河内守護の畠山氏であったが、その畠山持国が失脚してしまう。
嘉吉元年(1441)正月当時、幕府は関東で結城氏朝ら反乱軍の討伐を進めていた。(結城合戦)幕府軍は前年7月29日から下総結城城を取り囲んでいたが、一向に攻略の糸口が見えなかった。業を煮やした将軍足利義教は持国に関東への出陣を命じたが、持国が言を左右にしたため、義教の不興を買った。事態を憂慮した畠山氏の家臣団は、義教に対して持国の赦免を願い出た。これを受けて義教は持国を畠山氏の家督から外し、持国の異母弟である持永を新家督とした。持国は京都の屋敷を引き払い、分国河内へと落ちていった。経覚失脚と全く同じパターンである。
嘉吉元年4月16日、結城城はようやく陥落した。5月4日には結城氏朝ら賊徒の首が京都に到着し、首実検が行われた。以後、公武の有力者たちは、競って将軍を招き、戦勝の祝宴を張った。そして6月24日、赤松教康が将軍義教を自邸に招いた。しかしこれは、赤松満佑・教康父子の謀略であった。満佑らは義教を自邸で暗殺し、分国播磨へと下っていったのだ。
翌25日、管領の細川持之は諸大名を招集し、善後策を協議した。会議の顔ぶれは不明だが、山名持豊(宗全)、畠山持永、一色教親、赤松貞村あたりが参加したと考えられる。まず彼らは、義教嫡男の千也茶丸を将軍後継と決定した。ただし千也茶丸はまだ8歳なので、管領の持之が政務を代行することになった。
 恩赦政策
そして諸大名は、義教に追放ないし処罰された人々に恩赦を出すことを決定した。この決定の最大の焦点は、畠山持国の赦免にあった。失脚したとはいえ、河内に隠然たる勢力を保つ持国を放置したまま、幕府軍が播磨に下れば、京都は危うくなる。だが持国の復権は、会議の参加者である持永の不利益につながることでもある。
諸大名が、持国を赦免した後、どう処遇するつもりだったのか、残された史料からは判然としない。けれども持永の手前、持永を廃して持国を再び家督と認める、というところまでは踏み込めなかったであろう。実は、持国・持永の父である満家も、足利義満の不興を買って、謹慎させられた時期があった。このため畠山基国が亡くなると、嫡男の満家ではなく、次男の満慶が家督を継いだ。しかし応永15年(1408)義満が没すると、満慶は家督を満家に譲り、以後は満家の右腕として活躍した。諸大名は、かつての満家・満慶兄弟のように、持国・持永兄弟が和解してくれることを期待していたのではないだろうか。
ところが、持国追い落としを主導した持永の母、そして畠山氏家臣の遊佐勘解由左衛門尉・斎藤因幡入道は、河内の持国の屋敷に刺客を放った。怒った持国は軍勢を率いて上洛する構えを見せた。
驚いた細川持之は、使者を派遣して持国の意図を問いただした。持国は「幕府に逆らうつもりも弟を討つつもりもない。」と答え、ただし遊佐勘解由左衛門尉・斎藤因幡入道の両名には切腹してもらう、と語った。畠山持永の家臣の大半は河内の持国のもとに走り、進退窮まった遊佐・斎藤は嘉吉元年7月4日、持永を拉致して京都を脱出した。付き従う者はわずか50騎。ここに持国の家督復権が確定した。
同月14日、越智維通の遺児である春童丸が蜂起した。幕府の命令によって、越智氏の家督は一族の楢原氏が継いでいたが、春童丸はこれを破り、家督を奪取した。この行動は畠山持国と示し合わせてのものだった。
 経覚動き出す
義教に処罰された者たちの復活を目の当たりにして、経覚も動き出した。10月2日、経覚は謹慎場所の宝寿寺から上洛し、大乗院門主への再任を願った。しかし幕府は、奈良近郊の己心寺への移住は認めたものの、門主への復帰は許さなかった。
同月8日、経覚は「隠居」として己心寺に移ったが、これで満足したわけではない。翌11月15日、経覚は越智以下の国民を率いて禅定院に押し寄せ、力ずくで門主に復帰した。
万理小路時房は「年少の尋尊を自分の弟子として養育すると経覚が幕府に要請していれば、丸く収まったかもしれないのに、武力によって決定を覆すとは、智者にも過ちはあるということか」と批判している。だが、経覚にしてみれば、尋常の方法では門主に復帰できないとわかったからこそ、経覚は武力を用いてでも門主に返り咲こうとしたのである。
もっとも、武力行使には副作用もあった。経覚は固有の軍事力をもっていなかったので、同じく義教に弾圧された越智の力を借りた。失脚前の経覚は、衆徒・国民の争いに際して、特定の勢力に肩入れせず、調停者的立場を崩さなかった。だが、越智一派の軍事力を利用した結果、経覚は親越智・反筒井の旗を掲げることになった。経覚が争乱の渦中に飛び込んだことで、大和の政治情勢は新たな段階に進んだのだ。

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