プロイセン首相時代
~首相就任~
 

 冷ややかな評判のなかで
1862年9月23日、ビスマルクはプロイセン首相に就任した。ついに彼は「至高なる自我」を満足させることのできる、プロイセン臣下として最重要かつ最高の地位を手にしたのである。当時の心境を彼はこう漏らしている。
「仕事は多く、幾分疲れるし、十分には眠れないが、何事も最初は難しいものだよ。だが神のお力添えのおかげで少しずつよくはなってくるだろうし、現に今はいい感じだよ。ただ、常に注目され続ける生活という物は幾分嫌なものだね」
ビスマルクの首相就任に対するプロイセン国内の反応は冷ややかなものだった。反動主義者にして時代錯誤的な「封建的」利害の代弁者、これが彼の評判であった。そんな「田舎者ユンカー」に、軍制改革問題に端を発する国家の一大事を解決することが果たしてできるのだろうか。大勢はそれに否定的な観測をしており、この政権は長続きしないとみられていた。
 国内の政治危機を打開することを期待された
だが、上記の評価の一体どこが的外れなのだろうか。そもそもビスマルクが首相に抜擢されたのは、外交官としての功績が評価されたからでもなければ、彼が以前から何度も主張してきた対墺強硬論が政府の方針として採用されたからでもない。自由主義派との間に強力なコネがあったからでもなければ、議会運営の手法に定評があったからでもない。彼が抜擢されたのは、国王側と議会側の衝突が国王退位の可能性をも含んだ深刻な政治危機へと発展し、こうした事態を打開すべく陸相ローンがビスマルクをヴィルヘルム1世に強く推薦したからに他ならない。つまり、当時のプロイセン国内の政治危機が彼に首相への道を開いたのである。
だからといって、ビスマルクの首相就任を単に状況の変化のなせる業として片づけるのは、あまりにも彼を過小評価するものである。王妃アウグスクの助言もあってビスマルクに対する警戒心を払拭できなかったヴィルヘルム1世が最後の拠り所としたのは、君主主義への絶対的忠誠という彼の保守的なスタンスであり、彼が有する伝統的な側面であった。これがなかったならば、彼は首相はおろか外交官にすらならなかったであろう。しかしながら、もし彼が丹南流保守的な人物でしかなかったならば、国家の非常時に首相に抜擢されることもなかったであろう。ヴィルヘルム1世もローンも最後は、保守的でありながら何をしでかすかわからないビスマルクに賭けたのである。それらの点を見逃してはならない。




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