斉彬とお由羅騒動 ~英明なる斉彬~ |
また、西郷隆盛・大久保利通をはじめとする多くの志士たちを、感奮興起させた事件でもある。西郷は、父吉兵衛が用達を勤める日置島津家の赤山靱負が切腹処分となり、父から靱負の遺言と血染の肌着をもらい受けた。時に西郷22歳、靱負27歳であった。大久保は、琉球館蔵役の父利世が喜界島遠島処分となり、大久保自身も記録所書役助を追われ、辛酸をなめた。大久保19歳のときである。
世子斉彬は、聡明な母の教育と共に、高輪邸に住む曽祖父重豪の感化を大きく受けて育ち、蘭学の研究に手を付けた。豪邁で闊達な気性の重豪は、11代将軍家斉の岳父として権勢をふるったが、中国・オランダの学問を積極的に受容し、藩校造士館・医学院・明時館などを創設したり、中国語学書「南山俗語考」や農業生物百科全書「成形図説」など各種の図書を編集刊行した。斉彬が16歳の時、蘭学に興味を持つ大叔父の中津藩主奥平昌高と重豪に従い、オランダ商館医シーボルトを大森に出迎えて会談した事は、蘭学への関心を一段と引き立てたと考えられる。
重豪の遺産は斉彬が継承し、渡辺崋山・高野長英・箕作阮甫・戸塚静海・石川確太郎・松木弘安等の蘭学者を優遇して、洋書の翻訳研究を行い、海外情勢にも広く通じていた。 斉彬は、越前松平春嶽・土佐山内容堂・宇和島伊達宗城・肥前鍋島閑叟・尾張徳川慶勝・水戸徳川斉昭など賢明の名高い諸大名と親交があり、これらの諸侯宛の書簡が多く残されている。蘭書の貸借を中心とする9歳先輩の徳川斉昭宛のものが最も多く、お由羅騒動期には9歳後輩の伊達宗城宛の書簡がこれに次いでいる。斉彬はこれら諸侯中、賢明随一という世評があり、幕閣では老中阿部伊勢守正弘と特に親しかった。阿部正弘が弘化3年(1846)、琉球外国船問題処理のため、藩主斉興に代えて斉彬に帰国を命ずるほどであった。 |