斉彬とお由羅騒動 
~英明なる斉彬~
 


 お由羅騒動とは
島津家第27代、藩主斉興の継嗣を巡って薩摩藩に一大お家騒動が勃発した。世にお由羅騒動、あるいは嘉永朋党事件等と言われ、首謀者の名前を取って近藤崩れ、高崎崩れなどと呼ばれ、英名の聞こえ高い世子斉彬派と、斉興の愛妾お由羅の子久光擁立派の激しい抗争事件である。嘉永2年(1849)から翌年にかけて、斉彬派の切腹・遠島等の処分が相次ぎ、多くの有為の人士が辛酸をなめた一大悲劇事件である。
また、西郷隆盛・大久保利通をはじめとする多くの志士たちを、感奮興起させた事件でもある。西郷は、父吉兵衛が用達を勤める日置島津家の赤山靱負が切腹処分となり、父から靱負の遺言と血染の肌着をもらい受けた。時に西郷22歳、靱負27歳であった。大久保は、琉球館蔵役の父利世が喜界島遠島処分となり、大久保自身も記録所書役助を追われ、辛酸をなめた。大久保19歳のときである。
 斉彬の登場
斉彬は、文化6年(1809)9月28日、島津家第27代藩主斉興と鳥取藩主池田相模守治道の娘弥姫(周子夫人)との長男として生まれた。周子夫人は賢夫人の誉れ高く、我が子を「人手に託してお育て申すが如きは、母の本分として且つは婦女子の道として、為すまじき事」として、乳母の手に委ねることなく、自ら乳を含ませて大切な幼児期を育てた。また、斉彬5,6歳の頃から、自ら漢籍の巣読を厳しく教え、古今の聖賢の道を説いて聞かせ、書道・絵画・小謡鼓・謡曲仕舞・和歌などを教育したといわれる。その周子夫人は、文政7年32歳の若さで、江戸芝の藩邸で亡くなった。斉彬15歳の時である。
世子斉彬は、聡明な母の教育と共に、高輪邸に住む曽祖父重豪の感化を大きく受けて育ち、蘭学の研究に手を付けた。豪邁で闊達な気性の重豪は、11代将軍家斉の岳父として権勢をふるったが、中国・オランダの学問を積極的に受容し、藩校造士館・医学院・明時館などを創設したり、中国語学書「南山俗語考」や農業生物百科全書「成形図説」など各種の図書を編集刊行した。斉彬が16歳の時、蘭学に興味を持つ大叔父の中津藩主奥平昌高と重豪に従い、オランダ商館医シーボルトを大森に出迎えて会談した事は、蘭学への関心を一段と引き立てたと考えられる。
 英明の聞こえあり
文政9年(1826)11月27日、斉彬は将軍家斉の弟一橋斉敦の長女英姫と結婚した。この頃の斉彬は「学問の要は、記誦詩章の域に腰を掛けるこそ無益なり。実時の学問こそ肝要なり。政事をなす者は現事を和漢の事歴に孝照し、時勢人情に則り施すを要とす。学問なき人は政府をなすに過不及、緩急軽重の弁別、人の善悪正邪を見分すること能わず」と、学問の必要について述べ、蘭学を特に積極的に学ぼうと考えた。早くも19歳で、「公儀其外にて申し候は、兵庫頭(斉彬)殿には大大名にはをしき人にて候。あれを少身の大名にして、御老中になし、天下の国政をつかさどらせ申したき事なりと、評判これあり候由」といわれるほど、英名の聞こえがあった。
重豪の遺産は斉彬が継承し、渡辺崋山・高野長英・箕作阮甫・戸塚静海・石川確太郎・松木弘安等の蘭学者を優遇して、洋書の翻訳研究を行い、海外情勢にも広く通じていた。
斉彬は、越前松平春嶽・土佐山内容堂・宇和島伊達宗城・肥前鍋島閑叟・尾張徳川慶勝・水戸徳川斉昭など賢明の名高い諸大名と親交があり、これらの諸侯宛の書簡が多く残されている。蘭書の貸借を中心とする9歳先輩の徳川斉昭宛のものが最も多く、お由羅騒動期には9歳後輩の伊達宗城宛の書簡がこれに次いでいる。斉彬はこれら諸侯中、賢明随一という世評があり、幕閣では老中阿部伊勢守正弘と特に親しかった。阿部正弘が弘化3年(1846)、琉球外国船問題処理のため、藩主斉興に代えて斉彬に帰国を命ずるほどであった。




TOPページへ BACKします