尾張統一と桶狭間の戦い ~将軍擁立~ |
謙信と信長、この二人を結び付けた人物は、同年代の将軍足利義輝であろう。義輝が、対立関係にあった三好長慶と和睦し、亡命先の近江朽木谷から帰洛したのが永禄元年11月のことであり、翌永禄2年にはその祝儀として2月に信長が、4月に謙信が相次いで上洛しているからである。 彼らは義輝に謁見したが、その際、さらに実力を蓄えて再び上洛を遂げ、三好氏を退けて室町幕府を支えるように指示した。これに関連して、足利将軍家と信長が取って代わる管領斯波氏との、また謙信が名跡を襲名することになる関東管領山内上杉氏との関係が注目される。
政元は、前関白九条政基の子息で養子となっていた細川澄之を、後継者として管領に、さらに澄之と従妹関係で、義澄の弟の潤童子を堀越公方に就任させるという、公武一体の政権構想を実現しようとしていたようだ。政知の重臣渋川義鏡の子息であった義廉は、幕命によって寛正2年(1461)に斯波氏を相続した。義澄と義廉は親しい間柄であったようで、それによるものか、義輝は二条勘解由小路の旧斯波義廉邸に幕府御所を営んでいる。 後に信長は、事実上の斯波氏の後継者であることを主張しており、新将軍となった足利義昭の御所を、義輝の御所跡に造営した。永禄11年10月24日付の義昭御内書には、義昭が信長を斯波氏の家督に任じ、武衛の称号を許したことが記されている。 これに対して謙信が襲名した山内上杉氏も、細川政元の政権構想と密接に関係している。澄之を養子に迎えた翌月の延徳3年(1491)3月に、政元は越後にくだり上杉氏を訪問し、義澄擁立の下工作を行っているのである。謙信が義輝を支持したのも、やはり越後国守としての名分を義澄系将軍家への奉公に求めたからであろう。謙信は永禄4年閏3月に、鶴岡八幡宮で事実上の関東管領に就任し、鎌倉府体制の復活を目指すが、それは義輝の政権構想にも合致した。また義輝と従妹関係にあり、側近でもあった関白近衛前久が越後に下り、謙信と共に関東に出陣し、古河公方足利藤氏を支えている。 京都と関東、そして武家と公家との一体的な統合、これが義輝の政権構想であったと思われる。信長も謙信も、義輝のもとで公武一統の強力な室町幕府体制の復活に賭けたとみられるのである。
その後登場するのが、義輝の弟義昭である。義昭は天文11年11月20日、4歳の時に関白近衛稙家の猶子となり、興福寺一乗院門跡に入室し、覚慶と名乗った。当時の足利幕府は、直轄領からの収益が極端に落ち込んでおり、義昭の入室もひとえに苦しい台所事情によるものであった。一乗院は、近衛家の管領下にあり、東北院以下11の院家を従えていた。当院は、大和一国の過半を占める寺領と、京都大覚寺などを末寺としていた。このような裕福な院家に入室した覚慶は、門跡の後継者となるべく修業を積んだ。 永禄5年に一乗院門跡覚誉が円寂(死去)し、、覚慶が門跡を継承する。翌年の興福寺の維摩会に一乗院は銭五千疋を分担し、覚慶が学僧試業の法たる流儀を務めている。さらに彼は権少僧都となり、興福寺の有力者への道を着実に歩んでいた。 だが、予期せぬ事件が覚慶の人生を一変させることになった。三好三人衆による将軍足利義輝の暗殺である。そのために幽閉され、身の危険を感じた覚慶は、一乗院を脱出し、近江国甲賀郡の和田惟正のもとに逃亡した。覚慶はここで還俗して義秋と名乗る。 そして直ちに上洛し将軍任官を果たすため、義昭は諸大名に協力を要請した。彼は、自らが将軍となることで、祖父足利義澄以来の将軍家の血脈が断絶してしまうことを避けようとしたのである。義昭は、特に義輝と面識のあった信長に期待し、「当家再興」すなわち義澄系将軍家復活を目指して積極的にアプローチした。信長も、これに応えるべく行動を開始する。 遅くとも永禄9年6月までに、義昭の推挙によって信長が尾張守に任官していたことが確認されている。実力で管領斯波氏に代わって尾張守護としての地歩を固めたとみるべきであろう。かつて義輝に共鳴した信長が、義昭に対して早くも同年12月に「御供奉の儀」、すなわち上洛戦の協力を表明したのも当然のことであった。 |