尾張統一と桶狭間の戦い
 ~桶狭間の戦い~
 


 軍隊前衛の突出力の差
鉄砲が主力兵器になっていない段階では、軍隊前衛の突出力の差こそが勝敗を分ける。鋭く、しかも俊敏に敵軍の前衛部隊に食い込むことに成功すれば、当然の事として本陣、すなわち敵将に近づくことができ、少ない兵力でも勝利する可能性が高まる。いわば楔の役割を果たしたのが、信長にあっては長槍隊であった。
長槍隊が敵の前衛部隊に穴をあけて食い込んでいき、頃合いを見計らって背後に備えていた本隊が投入される。しかしこれは、彼我の軍勢数に極端な差がない場合のみ通用する戦法である。少数の軍隊が大軍を相手とする不利な戦争では、敵の前衛と本陣との間隙を衝いて敵将をピンポイント攻撃するような、極めて危険度の高い戦闘でしか勝機はつかめない。
永禄3年(1560)5月、信長は今川義元の尾張侵攻という未曽有の危機に遭遇する。「信長公記」には、今川方4万5千人に対し、織田方が2千人弱で戦いを挑んだということになっている。この兵力の差は極論にすぎ、実際にはさほどの差はなかったと推定されるが、それでも兵力に差があることには変わりはない。信長は迷わずピンポイント作戦を敢行した。
 ピンポイント攻撃
ここでは桶狭間の戦いの詳細については割愛するが、義元が上洛を目指していたとする「信長記」軍記物などの見解については、今は否定されつつあり、尾張の攻略を目指していたにすぎないという見方が圧倒的である。また、信長の戦法を迂回奇襲戦とする見方も、最近では荘園攻撃だったと修正されつつある。そしてその義元も、尾張攻略にしても自発的なものというよりは、むしろ信長におびき出されたため、今川両の西側境界地域を守るために行った遠征であると言わざるを得ない。今川方となっていた鳴海城・大高城に対して、信長が付城群による封鎖網を構築したため、これを打ち破るべく義元が後巻として進軍したことで発生したのが桶狭間の戦いであり、典型的な後詰決戦であったのだ。
この解釈に基づけば、義元は差し当たって鳴海城と大高城を回復すれば目標は達成できたのである。したがって大高城への兵糧補給と、丸根砦・鷲津砦の落城で、一先ず彼は安心したのだろう。もっともこのことで勝ち戦に油断したことは事実であり、桶狭間山で休憩したり、酒宴を張ったといわれている。
この間隙を信長はついた。義元の前衛軍は、大高城や鳴海場周辺に展開しており、深田や池を隔てて義元本陣とはやや距離があったと推定される。すでに捨て石となった300の兵が正面攻撃を仕掛けて失敗しており、それを山上から義元は観ていた。まさか信長が、本陣に攻撃を仕掛けてくるとは想像していなかったであろう。信長は戦った形だけを取り、撤退すると見たのではなかろうか。義元が油断したのも、当時の軍事的常識に基づいたものであり、大高・鳴海両城を奪還すれば、わざわざ尾張に深入りする危険を冒すつもりはなかったのかもしれない。
 偶発性の強い戦い
また信長にしても、義元の軍勢と交戦し少しでも押し返せれば外聞もたったのである。まさか信長としても、主将たる義元の首を採れる大勝利になるとは想像していなかったであろう。桶狭間の戦いは偶然の要素の強い戦いであり、信長とすれば極めて幸運であったといえよう。
だが、幸運ではあったにせよ、ピンポイント攻撃の絶対的な前提である、敵将の居場所、すなわち本陣の所在を正確につかんでいたことは信長の戦略が確かであったことの裏付けである。誤って他の陣に突入すれば、それこそ一網打尽であった。決戦前日の清須城において籠城戦を主張する重臣たちに対して、信長は何ら軍議らしいことを行わかったため、重臣たちからは「運の末には智慧の鏡も曇るとはこのことであろう」と嘲弄されている。
信長は機密保持のためには、作戦を開示しなかったのであろう。信長にすればあらかじめ正確な情報収集と情勢判断のうえで勝機ありと判断したからこそ、正面突破を強行したとみられる。桶狭間の戦いの最大の謎はここで、今川方の重臣クラスに内応者でもいない限り、このような無謀な戦争はあり得なかったのではないか。
それにしてもこの戦いは、信長の武名を天下にとどろかせたばかりか、家臣団統制の面でも効果的に作用した。合戦後、家臣団から批判らしい批判も聞こえなくなり、「奇跡」を起こしたこの段階で、信長のカリスマ支配が確立したとみてよい。




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