尾張統一と桶狭間の戦い
 ~銭貨収奪システム~
 


 伊勢湾の流通支配
尾張時代の信長は、三間半もの長槍を組織的に使用できる部隊を編成していた。これこそが、彼の軍隊の強さの秘密だった。しかし、なぜ信長だけにそれが可能であったのか。これを支えたのは、間違いなく突出した銭貨蓄積によるものである。その銭貨収奪システムの実態はあまり明らかになっていない。
当時の信長の経済政策で見るべきものは、伊勢湾地域の港湾都市に寄生した流通支配にあった。ここに銭貨収奪システムの為のヒントが潜んでいると思われる。
かつて父信秀は、山科家などの京都の公家との交流を持ち、朝廷や伊勢神宮へ何千貫文もの大金を献金し得たのは、津島や熱田といった有力港湾都市を掌握したことに求めると考えられる。商人たちへの保護への反対給付として、租税を銭貨で徴収したと考えられる。信長の経済力も、父譲りの銭貨蓄積によるものだったと思われる。
銭貨収奪システムとの関連で注目したいのが、判銭とよばれる、平和の保障や旧来の諸権利の安堵を約束した信長の判物(のちの朱印状)発給に伴う莫大な手数料(献金ともいえる)である。当然これは、戦争の前後に得られるものであった。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスによると、信長の勢力下に組み込まれた地域の寺院・領主・都市においては、信長から旧来の所領或いは諸特権の安堵を認める朱印状を交付してもらうために、判銭として自らの身分と立場に相応する莫大な献金を、積極的に行ったことが記されている。
これこそ、当時日常的に行われてた贈答すなわち賄賂ともいえる伝統的習俗であろうし、尾張時代の信長文書に含まれる制札・禁制作成の背景とも考えられる。
 無縁所
ここで注目されるのが「無縁所」である。信長は、雲興寺(愛知県瀬戸市)、東龍寺(愛知県常滑市)、正眼寺(愛知県稲沢市)などに対して、「無縁所」として諸役の免除、金融活動・買得寺の安堵、国中の自由通行権を保障している。
「無縁所」とは、門前町などの都市的空間を伴っており、アジール(世俗の世界から遮断された、不可侵の聖なる場所、平和領域で、武士の直接支配を排除する土地)である「楽市」と同様に、尾張の諸地域に点在していた。信長が道三と会見した聖徳寺も、美濃国境に近い真宗寺院で、尾張・美濃両方の領主権力から認められた一種のアジールであった。
信長は尾張統一の過程で、服属した寺院・領主・都市に対して旧来の諸特権を認めるとともに、「無縁所」などと言われた、それまで特定の領主に属さなかった自治権を有する寺社を中核とする都市的な場所についても、制札・禁制などによる平和保障と特権安堵を通じて、直接把握していったのである。
もちろんこれらの安堵には、信長が育成しようとしている御用商人や一部の城下町を除くと、信長への莫大な判銭拠出と今後の奉仕の約束が前提としてあったと考えられる。このように毎年行われる大小の戦争と所領の拡大そのものが、信長に巨額の富をもたらす構造を強化していたのである。
ちなみに、信長の旗印が最も流通していた中国銭である永楽通宝だったことは有名である。今日でいうとドル紙幣を旗印にしたようなものである。また、安土山の総見寺には、信長所用の鉄ツボといわれるおのが伝来するが、その表に六枚、裏に七枚の永楽通宝が銀象眼で施されている。いかにも、経済感覚の鋭い信長のしそうなことである。




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