尾張統一と桶狭間の戦い ~長槍隊と兵農分離~ |
鉄砲伝来以来の武器の主役は刀ではなく、長槍と弓・礫・焙烙(素焼きの土器に黒色火薬と鉄片や鉛玉などを詰めた球形の焼夷弾)など種々の飛び道具であり、それらを扱う足軽が軍勢の過半を占めた。足軽以下の雑兵の多くは百姓出身であり、戦国大名はその家臣の徴発に応じて出陣した。 長槍は、主として叩く物だから、長ければ長いほど有利だった。訓練された槍持ちの足軽が横隊を編成し、隙間を作らないように叩きながら前進するのである。たとえそこに騎馬隊が突撃してきても、一斉に長槍後備の石突きを地面に突き刺し固定して穂先を敵側に向けた大規模な槍衾を作れば、いかに強力な騎馬隊でも突破することなど不可能だった。 しかし、長槍は長いほど重く、しなることから統一的な操作が難しく、日常的に足軽たちに軍事訓練を課さねば、大規模な槍衾を組織的に編成することができなかった。臨機応変にフォーメーションを変え、たとえ強力な騎馬隊が突進してきたとしても、決して隊伍を崩さないように集団的に訓練が施されていなければ意味がなかったのである。
(もっとも、当時は信長だけでなく、他の戦国大名も兵農分離はある程度推し進めていたと思われるので、兵農分離自体が信長のオリジナルであるとは思われない) 信長が採用した三間半の長槍は、戦国大名の中で最長だったといわれる。「信長公記」では、尾張富田聖徳寺の会談の際、斎藤道三が美濃衆の槍が信長の軍隊のそれと比べて短いのを見て、「興を覚ましたる有様」つまり不機嫌になったと記している。即座に、信長とその軍団が侮れないものであることを見抜いたのである。 実際、天文23年7月に信長は柴田勝家に命じて清須城を攻撃させるが、白兵戦の中で槍の長さに勝る信長方が勝利した。徒歩戦を中心とする当時の戦争において、大規模な長槍隊の編成は注目に値する。 この長槍は「三間間中(三間半)柄の朱槍」と信長公記に記されているように、信長が長さばかりか色も含めて同じ規格のものを大量に準備し、足軽たちに装備したものである。もはや従来のような武装自弁ではなく、たとえ百姓・町人出身であっても、腕に自信のある若者が希望さえすれば、比較的容易に仕官できるようなリクルートシステムになっていたことを物語っている。 |