尾張統一と桶狭間の戦い
 ~尾張統一~
 


 都市型領主の系譜
戦国時代の尾張では、下四郡を支配する清州城の守護代織田氏(大和守を名乗る)と、上四郡を支配する岩倉城の織田氏を旗頭に、有力一族による共同支配が行われてきた。
信長の家は清州織田氏の三奉行の一つと言われ、祖父信定の頃より勝幡を居城とした。祖父や父信秀は、居城からほど近い津島牛頭天王社(津島神社)の門前町で港町としても栄えた津島と親密な関係にあった。
信秀は天文7年(1538)頃に今川氏の那古野城を奪って信長に与え、自身は古渡に築城してそこへ移った。さっそく信秀は、熱田神宮の門前町として殷賑を極めた熱田を制し、その豊かな経済力を基盤に三河や美濃へと出陣を繰り返し、主家をもしのぐ実力を蓄えた。
天文12年には内裏築地修理料として四千貫文を献上するなど、京都にまで経済力豊かな武将として鳴り響いた信秀の領主経営の特色は、フットワークの軽さにあった。草深い村社会にとどまって美田の集積を目指すのではなく、居城を移して有力都市に寄生するのである。このような合理性が後に信長の領主観に大きな影響を及ぼすことになる。
 後継者として
天文21年3月、信秀は突如亡くなった。信秀は確かに尾張最大勢力になっていたが、一国を治める名目や制度は何も持っていなかった。つまり、信秀一人の実力に依存していた織田家の基盤は、その張本人がいなくなれば当然揺らぐ。信長は自らの実力で尾張を平定していかなくてはならなかった。そこで信長は、尾張守護の斯波氏との関係を利用して、尾張の統一を目指した。
まず、美濃の斎藤道三との同盟を強化した。すでに道三の娘の濃姫(帰蝶)との婚姻を済ませてはいたが、尾張聖徳寺の会見でさらに同盟を強化。攻守同盟を結ぶことに成功し、美濃からの軍事的脅威は去った。以後信長は尾張国内の敵対勢力及び東の今川氏への対応に専念することができた。
信長は、国内に向けては伝統的権威を重視する姿勢を見せた。戦国時代初期まで守護代織田氏が尾張守護斯波氏とともに在京していたこと、また尾張とその周辺諸国においては足利将軍の親衛隊である奉公衆が多かったことが、その理由として挙げられる。
天文22年7月、清州城にあった守護斯波義統は、守護代織田信友の家臣に殺害され、その子息義銀は信長を頼った。それを好機と見た信長は、天文23年5月守護代家を滅亡させ、清州城に入城し、事実上斯波義銀の守護代となった。
 伝統的権威の利用と弟との相克
当時の斯波氏は、重臣朝倉氏に追われて本国越前を捨て、尾張に拠点を移していた。形式的にせよ信長は、義銀を守護と位置付けて清州城を献上し、永禄4年(1561)に追放するまでは、それまでの守護代の例に倣い、同城の櫓に居住した。信長の尾張統一は、守護―守護代による共同支配体制の復活という伝統的権威の利用で進められていった。
織田大和守家を滅亡させ、尾張の過半を掌握した信長ではあったが、岩倉城を拠点に尾張北部に勢力を持った織田伊勢守家を討滅すること、末森城を基盤に依然として自立を保ち、母親土田氏や林秀貞・柴田勝家などの重臣に支持されていた弟信行を服従させること等が次の課題となった。
信長は、永禄元年(1558)11月、病気と偽って信行を清州城に呼び寄せて殺害し、永禄2年3月には伊勢守家の織田信賢を降伏させ、岩倉城を破却した。織田家統一による尾張一国支配を、冷徹か苛烈な手法でほぼ実現したのである。わずか7年間の間であるが、その7年は実に戦いに次ぐ戦いの苦闘の連続であった。




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