奥州仕置と大崎・葛西一揆の真相
~一揆虐殺~
 

 疑われていた政宗の出陣
この大崎・葛西一揆には、早くから政宗の関与が疑われていた。一揆の蜂起は、大崎旧臣の処刑事件があった10月下旬とされるが、これに諸大名に先駆けて反応し、先遣部隊を現地に送り込んだのが政宗であった。政宗自らが危急を知らせてきた浅野正勝と共に出羽の米沢城を出馬したのは、その3日後の10月26日であるが、それでも豊臣政権による奥羽統治の要とされた蒲生氏郷の出陣(11月5日)よりはるかに先んじていた。氏郷の場合、先手衆を10月28日から29日に出発させ、自らは11月1日に会津を出馬するつもりであったが、29日からの大雪で延期せざるを得なかったようだ。
氏郷が松森(宮城県泉市)を経て政宗との会見場となった下草城に着陣できた時は、11月14日に達していた。ここで一揆討伐の日取りを16日と定める一方、翌15日には、五か条の覚書を政宗に発給して、その忠勤を促すと共に、希望の筋を秀吉へ伝達する旨、約束したのである。
 蒲生氏郷との相克
政宗は、中目・師山・高清水・宮沢の諸城を次々と攻略し、24日には佐沼城に攻め寄せて、当城に押し込められていた木村吉清・清久父子の無血救出に成功した。だが、このとき肝心の氏郷は、16日に一揆勢から奪い取った名生城に籠ったままであった。政宗宛の覚書を認めた同日(15日)政宗の家臣須田伯耆が、政宗の書状を松森の氏郷の元へ持参し、政宗が一揆と同心して氏郷の謀殺を企んでいる由、密かに訴え出たからである。事の仔細(政宗の不穏な動き)を秀吉に通報する一方で氏郷は、政宗と一揆による挟撃を警戒していたのだった。
しかし、政宗によって救出された木村吉清が浅野正勝と共に名生城を訪れ、政宗の働きを復命するに及んで、翌日26日、氏郷は改めて秀吉の元へ2日前の通報を訂正する一書を認めた。そして28日には、政宗との間で誓紙の交換をして、互いの働きをたたえ合っている。
この誓紙の趣旨は、氏郷が政宗の働きを称え、その功によって大崎・葛西の地を政宗に預け置かれるよう秀吉へ取成しを誓ったのに対し、政宗が、氏郷の佐沼城後巻の功を認めると共に、別心・表裏のない旨を誓うというものであった。このように表向きの信頼関係は成立したのだが、裏では両者の間柄はなかなかに複雑であった。というのは、氏郷の秀吉への報国に誤りがあり、そのため秀吉がいったんは徳川家康や豊臣秀次の出陣を命じながら、直ちにそれを取り消させるといったように、その手を煩わせたからである。このため、政宗は一揆煽動の嫌疑をかけられ、氏郷は誤報を叱責されるといったように、事は政権の中枢に至るに及んだ。
 一揆暴発




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