奥州仕置と大崎・葛西一揆の真相 ~一揆虐殺~ |
氏郷が松森(宮城県泉市)を経て政宗との会見場となった下草城に着陣できた時は、11月14日に達していた。ここで一揆討伐の日取りを16日と定める一方、翌15日には、五か条の覚書を政宗に発給して、その忠勤を促すと共に、希望の筋を秀吉へ伝達する旨、約束したのである。
しかし、政宗によって救出された木村吉清が浅野正勝と共に名生城を訪れ、政宗の働きを復命するに及んで、翌日26日、氏郷は改めて秀吉の元へ2日前の通報を訂正する一書を認めた。そして28日には、政宗との間で誓紙の交換をして、互いの働きをたたえ合っている。 この誓紙の趣旨は、氏郷が政宗の働きを称え、その功によって大崎・葛西の地を政宗に預け置かれるよう秀吉へ取成しを誓ったのに対し、政宗が、氏郷の佐沼城後巻の功を認めると共に、別心・表裏のない旨を誓うというものであった。このように表向きの信頼関係は成立したのだが、裏では両者の間柄はなかなかに複雑であった。というのは、氏郷の秀吉への報国に誤りがあり、そのため秀吉がいったんは徳川家康や豊臣秀次の出陣を命じながら、直ちにそれを取り消させるといったように、その手を煩わせたからである。このため、政宗は一揆煽動の嫌疑をかけられ、氏郷は誤報を叱責されるといったように、事は政権の中枢に至るに及んだ。
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