奥州仕置と大崎・葛西一揆の真相
~一揆煽動疑惑~
 

 秀吉の奥州仕置
「関東並びに奥羽惣無事」をスローガンに天正18年(1590)関東へ攻め入った関白の豊臣秀吉は、小田原開城の余勢をかって奥州へ進撃し、8月9日に会津黒川城へ入城すると、直ちに奥州仕置の総仕上げの政策を発表した。
既に6月上旬には奥羽を席巻していた伊達政宗の処分、すなわち本領と二本松・塩松・田村を安堵する一方、先の蘆名戦で獲得した会津・岩瀬・安積を収公することを決め、既に7月下旬には下野の宇都宮で佐竹義宜・岩城常隆・南部信直らの所領を安堵していたので、それらに続く措置であった。
その概要は、秀吉への参陣を怠った大崎義隆・葛西晴信・石川昭光・白川義親らの領地を収公し、大崎・葛西領12郡を新たに秀吉の家臣である木村吉清・清久父子に与え、石川・白川領と会津・岩瀬・安積の地は伊勢松坂城主の蒲生氏郷に与えるというものであった。一方で、相馬義胤・最上義光・秋田実李らの面々に対しては本領を安堵した。
この新たな知行割と同時進行の形で、秀吉は刀狩りと検地という豊臣政権の基本政策をも推進したが、奥羽の状勢はこれで平和裏に納まらなかった。その奥羽の状勢を一変させる出来事が、大崎・葛西一揆の発生である。
 木村父子の悪政
秀吉が木村吉清・清久父子に宛がった大崎・葛西の所領は、知行高が30万石ほどに及ぶ。相当な大封であるが、実は木村父子はこれまでこのような大封を統治した経験などない。彼らは明智光秀の旧臣で、その身分は「小物5人・10人を召連れ候者(伊達日記)」に過ぎなかった小身者で、それだけにどの分限を超えた大抜擢に適応しかねた。寄せ集めの俄か家臣らの振る舞いが領民の顰蹙を買い、一揆の呼び水となったようだ。伊達成実の日記である「伊達日記」によると、「家中を構えたことのない少身の木村父子が、中間・小者・荒子といった足軽以下の身分を侍に仕立てたため、節度をわきまえず、大崎・葛西両氏の旧臣や農民の家に押し込んでは米を奪い、下女や下人を奪い、嫁や娘まで奪い取って己が女房にするといった無体を働いた。このため、大崎・葛西の旧臣が後先考えずに一揆を起こした」と記されている。
木村父子の暴政を批判したものだが、当の木村父子にしてみると、領民の反発必至の政策課題を背負わされていた。つまり、刀狩と検地の実施であって、既に入封の段階でこれが定められていた。ちまり、知行割の翌日(8月18日)に発給された石川光吉(貞清)宛の秀吉朱印状によると、冒頭の一か条目に「日本六十余州に在々の百姓、刀・脇差・弓・鑓・鉄砲、一切の武具類持ち候こと御停止について悉く召し上げられ候。然らば今度、出羽・奥州両国の儀、同前に仰せつけられ候」云々とあって、刀狩り断行が謳われた上に、同日付の石田三成宛の秀吉朱印状の冒頭一か条目に、「今度、御検地の上を以て、相定めなさるる年貢米銭の外、百姓に対し、臨時の非分の儀、一切申し付くべからざること」と見えるが如く、検地により支配が公にされたのである。
光吉と三成はともに秀吉近侍の大名で、豊臣政権の奉行として奥羽仕置の実務を管掌したのだが、防御手段を奪い、作合(年貢以外の搾取)を完全否定するこの政策は、在地の実質的支配層である地頭武士や長百姓の存在基盤を踏み躙るものであった。とりわけ主家の改易により、土着を余儀なくされた大崎・葛西の旧臣らの痛手は大きく、その不満が新領主となった木村父子の改革強行を契機に、爆発することとなったのである。
 一揆暴発
少身の身分からいきなり大役を任されることとなった木村父子としては、奥羽支配にかける秀吉の決意、すなわち刀狩や検地他の新政策に背くような者があれば、城主ならば城に追い込んで一人残らず、農民なら一郷も二郷も悉く撫で斬りに処するという方針を、とにかく忠実に実行しようとしたらしい。
吉清がこの年(天正18年)10月5日付で、豊臣政権の奉行浅野長吉宛に発給したと推測される書状によると、新領主の吉清が旧大崎領の農民に伝馬役を課そうとしたところ、大崎義隆の旧臣や地下年寄(長百姓)らはこれに反対し、隠し持っていた刀を持ち出して抵抗したため、その一味30人ほどを捕えて磔に処したという趣旨の報告がなされている。まさしく秀吉の掟に準拠した成敗であったが、このことは彼ら在地勢力の豊臣政権に対する反発を極限まで高めることになった。
大崎・葛西の旧臣からすると、このたびの豊臣政権による奥羽の仕置は、主家改易の処分で一方的に侍身分を奪われたうえに、作合を否定されて土着の道をも狭まれ、そのうえに新領主から新たな賦役が付加されたのであるから、死活問題だったのだろう。彼らの一揆は、まさに追い込まれてやむにやまれず行った、勝算を度外視した捨て身の抵抗と見るべきである。




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