(1977.9.3)
王貞治氏756号世界新記録
1番目のイチロー引退と、この2番目の王さんの話は、40年以上も開きがある過去の話で、まったくもって順番が前後するが、ここは時系列で掲載しているのではなく、単に私が思い出した名場面を振り返るだけなのであしからず。 王貞治氏は、私にとって初めて野球というものの存在を知らしめてくれた、最初にして最大級のヒーローなのである。 当時の野球界といえば、巨人がとにかく圧倒的な人気球団であった。というよりも、巨人こそが日本にとって唯一無二の存在であり、他の11球団は極論すれば巨人のためだけにあったといってもよい。 昭和40年代はV9という空前絶後の強さを誇り、伝統・名門球団の栄光を突っ走っていた巨人。そもそも巨人ではない、読売だよね本当は。(笑) 昭和50年からは長嶋茂雄が監督になり、最初はいきなり最下位に。しかし翌年は優勝し、この1977年も首位を独走していた。日本一は阪急に奪われているものの、人気という点ではむしろV9時代を上回っていたようだ。 NPB最大のスーパースター長嶋茂雄が引退し、プロ野球の屋台骨を事実上王が担う。王は1973,74年と2年連続して三冠王に輝き、実力も人気も絶頂であったが、75年は怪我もあって不振に終わる。 76年は復活し、打率325、本塁打49、打点123とスーパースターにふさわしい圧倒的な実力を見せつける。長嶋引退後最大のヒーローは間違いなく王貞治であった。 王の存在は球界にとどまらない。当時、日本で最も素晴らしいスターは王貞治だったと思う。美空ひばり、石原裕次郎と肩を並べるどころか、あらゆる分野の日本人を凌駕していたと思う。人格的な部分も優れており、昭和50年代の日本人は王貞治に輝かしい日本の象徴と仰ぎ、尊敬の念を抱いていた。 その王が、世界記録のメジャーリーガーであるハンク・アーロンの本塁打数755本を超える時がやってきた。前年にはベーブ・ルースの記録である714本を超えており、いよいよ世界一に近づいたと、世間は狂喜乱舞していたように思える。 当時の日本と米国の野球のレベルは今とは比べようがないほど隔絶していたはずだ。メジャーリーグの広い球場とは違い、日本の球場は実にせまく、本塁打が乱れ飛んでいた。そこで作った記録など、アメリカ人にはほとんど興味がないであろう。だが、日本人はそんなことお構いなしだ。米国の記録を抜くという事実だけでもいい。熱狂の渦、ここに極まれりだ。 さて、当時小学1年生だった私は、756号の瞬間を実は目にしている。 初めて印象的な野球の場面を見た瞬間とさえいえる。対ヤクルト戦の後楽園球場、対する投手は左腕・鈴木康二朗。決め球のシンカーを王は打ち返した。打球はライトスタンドへ。 日本中が、そして私も熱狂に包まれた瞬間であった。 あの張本が、飛び上がって万歳している写真が残っているが、王と同い年で似たような境遇の張本である。おそらくこの記録を最も喜んだ男の一人であろう。 派手なパフォーマンスなんかいらない。謙虚に万歳だけして、ゆっくりダイヤモンドを回ってホームイン。 「背番号一のすごい奴が相手」 という歌が、翌年ビックヒットしたが、そんな阿久悠の歌詞に書かれるほど、王貞治の存在はすごかったのだ。そう、本当に背番号一のすごい奴だったのだ。フラミンゴみたいにちょいと一本足で。 ある意味、私は最初にしてもっとも幸せだった野球の場面を体験してしまっていたのかもしれない。 その後、王の756号以上の場面って、果たしてどのくらいあったであろうか・・・・。 イチローの262安打?野茂のメジャー初登板?ノーヒットノーラン?うーん、どれもそこまでではないな・・・。 |