1 鴨緑江会戦
 ~日本軍の戦略~
 


 河川をめぐる戦い 
明治37年(1904)、日露開戦直後の満州平野に集結せんとするロシア軍に決戦を挑むべく朝鮮半島を北上する日本軍が、まず越えなくてはいけなかったのが幅800ⅿにも及ぶ大河・鴨緑江だった。
古来より、河川は多くの戦いの場となってきた。日本でいうと平家物語の名場面でもある源平合戦の宇治川の合戦、戦国期には織田信長と浅井長政が戦った姉川の合戦などである。また、近代戦においても、第一次世界大戦のドイツ軍「リガ攻勢」におけるドヴィナ川渡河、第二次世界大戦ではライン川渡河、オーデル川渡河などの大作戦、中東戦争におけるスエズ運河とかなど、枚挙にいとまがない。
河川をめぐる攻防が多いのは、河川が行軍の障害となる障壁だからだ。河川を渡るためには「渡河」という行為そのものに注意と労力を払わねばならない。となれば、守る側が河川を盾として、攻撃側に不利な渡河を強いて自軍の防御戦を有利に展開するのも当然である。河川をめぐる攻防が絶えないのは当然である。
日露戦争の緒戦となった鴨緑江会戦も、渡河という行動による本格的な渡河戦闘となった戦いである。
 「戦力集中競争」に勝る日本軍
鴨緑江会戦のそのものの原因は、日露双方の戦略に関係する。日露戦争において、日本陸軍は大陸で戦闘を展開すべく戦略を立案した。大陸で戦う理由の一つは、ロシア勢力を朝鮮半島および遼東半島から駆逐したいという政略的な理由であり、もう一つは、軍事的な理由で、日本陸軍が大陸に渡らない限り、ロシア軍との決戦が生じないことである。
ドイツ陸軍に学び、その決戦主義の影響を受けた日本陸軍にとっての勝利とは、適野戦軍に決戦を挑みこれを撃破することであった。とは言いつつも、ロシア軍が日本に侵攻することはそもそもありえず、仮にその気があったとしても、十分な輸送船をロシア陸軍は所持していない。それゆえ日本陸軍がロシア軍に決戦を挑もうとするならば、自ら大陸に赴いて戦うほかに道はない。
「秘密日露戦史」によると、日本陸軍の対露戦略は、まず開戦時における在満州ロシア軍兵力は、日本陸軍兵力より少ないという事実が戦略の基本条件となる。満州のロシア陸軍兵力は大軍を在留させていたとされるが、実際の野戦軍兵力は八個旅団でしかない。これに対して日本軍の野戦兵力は十三個師団と日本側が勝っていたのである。
当時、一個師団の兵力は旅団の倍程度であり、日本軍は単純比較では三倍近い戦力を有していたことになる。むろん、ロシア陸軍全体の兵力からすれば日本陸軍ははるかに劣勢である。ロシア陸軍兵力全体としては、日本軍の5~6倍の兵力規模である。
しかし、その兵力はロシア領内各所に散在するため、集中させるには手間と時間を必要とした。ヨーロッパのロシア軍部隊は、日本の予定戦場である遼東半島からはあまりに遠すぎるため、戦力集中にかなりの時間を要した。しかもヨーロッパ方面から極東へとロシア軍が部隊を輸送する手段はシベリア鉄道ただ一本というネックもある。
その結果、一度に輸送できる兵力量は限られ、ヨーロッパ方面からの部隊輸送には動員から戦地到着まで多大な時間がかかり、例えばモスクワ軍管区の三個師団を動員して戦地に到着させるには100日以上かかると考えられていた。これに対して日本軍は、予定戦場までの距離も短く、海上輸送によって一度に二個師団もの兵力を数日で大陸に送りこめた。その結果、日本陸軍は、ロシア軍より速いテンポで遼東半島へ戦力を集めることができた。つまり、戦力集中競争においては日本軍が有利だったのである。
 分進合撃作戦を採る
兵力集中競争で優るため、開戦後の早い時期であれば日本軍は数的優位をもって戦いに挑むことが可能と思われた。ロシア軍が強大だとしても、戦場での兵力が日本軍の数倍にも達してしまう前なら、これを撃破することも可能である。こうして遼東半島に戦力を集中しての早期決戦が、日本陸軍の対露戦略の基礎となる。
その決戦の予定戦場は鉄道と地形から割り出された。ロシア軍が鉄道で兵力輸送を行う関係から、ロシア軍が兵力を集中させる場所は鉄道路線付近となる。そのうえで大軍の展開に便利な平野となると遼陽付近、つまり決戦の予定戦場は遼陽となる。日本軍としては、遼陽会戦を目指して自軍部隊を集中させればよいことになる。決戦場から離れた場所に兵力を集めても意味はない。悪戯に遊軍と化すだけである。
この兵力集中において、日本軍は分進合撃を採用した。これは複数の方向から軍を求心的に進め、目標地点に集める方法だ。道路一本ごとの混雑を緩和し、相互の支援効果を発揮できる、敵軍を包囲しやすいなどのメリットがある。そして何より、日本軍が学んだドイツ軍、特にその母体であるプロイセン軍が普墺戦争で実行して成功を収めた手法であった。
メッケルを明治18年(1885)に陸大教官として招致して以来、日本陸軍は用兵思想、作戦立案面においてかなりの程度までドイツ式となっている。日露戦争に際して、日本陸軍がドイツ軍に倣い分進合撃を採用したのは当然と言える。
分進合撃を行うためには、日本陸軍は二個以上の「軍」を編成し、二本の進撃路(作戦線)を採る必要があった。ちなみに日本陸軍における「軍」とは、二個師団以上の戦力を有する部隊編成のことである。
そこで日本軍は、第一軍と第二軍という二個軍を編成し、第一軍には朝鮮半島から北上させることを計画した。当時の日本の国力では、二個軍すなわち四個師団以上の戦力を同時に動員して輸送する能力はない。しかも開戦前の段階では、黄海の制海権を海軍が掌握できるかさえ不明であった。そのうえ、ロシア勢力が朝鮮半島に及ばないようにする政略的な必要性もあった。
参謀本部はまず、第一軍所属の一部部隊を先遣隊として朝鮮半島に送り込んで韓国を勢力圏下に置き、そのうえで韓国を足掛かりに、黒木為偵将軍率いる第一軍を陸路遼陽方向へと北上させることとした。
朝鮮半島確保は政略的意味合いのほか、自軍の連絡線の確保という意味もあった。連絡線とは、日本陸軍の定義に従えば「作戦軍に軍需品を補給し、又作戦軍より人馬品材料捕虜を本国に送還する等に供する交通網」となる。いわば、人員物資を運ぶ輸送ルートのことで、補給路とでもいうべきか。軍隊にとって補給が大事なのは言うまでもないが、この連絡線を遮断されてしまうと、補給が滞り部隊の戦力は大幅に低下してしまうのである。だからその確保は重大である。
そのため第一軍は、連絡線となりうる道路を辿りながらこれを確保して前進しなくてはならない。そこで第一軍の作戦線は、遼陽へと通じる朝鮮半島西側の主要道路沿いとなった。そしてその進路上の大きな障害が鴨緑江であった。この大河を渡河しない限り、第一軍は遼陽へ進出することはできないのである。




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