1 鴨緑江会戦
 ~ロシア軍の戦略~
 


 遼陽一帯に兵力を集中させる戦略 
日本との戦争が懸念された1901年(明治34)、ロシア軍は対日戦の基本戦略を策定した。日本軍が戦略の基礎に置いた、初期の兵力劣勢、遠隔地からの輸送の不利と言った条件は、ロシア陸軍首脳部もよく認識していた。
そこでロシア軍は、極東の根拠地たるウラジオストック、旅順の二要塞を確保すること、ロシア本国からの増援を遼東半島に集中し、その増援兵力の集中完了を以て攻勢に転移する事を基本戦略とした。兵力を集中させる場所は日本軍の予想通り、鉄道沿線で大軍の展開に都合のよい開けた平野の遼陽一帯であった。
この場合、ロシア軍の問題点は、自軍の集中完了、言い換えれば戦力の優位を確保するまでの時間をいかに稼ぐかにあった。日本軍の進撃が速く、十分な兵力を揃える前に決戦を挑まれては困るわけである。
ロシア軍の視るところ、日本軍の作戦場は朝鮮半島北上ルートと、遼東半島南岸に上陸し東進するルートである。さらにロシアが制海権を喪失した場合、ロシア軍から見て背後に当たる遼東半島北岸に日本軍が上陸南下する恐れもあった。いずれにせよ、日本軍が数方向から分進合撃を行うであろうことは容易に予想し得た。
 クロパトキン大将の戦略
開戦直後に満州軍司令官となったクロパトキン大将は、日本軍が遼東半島北岸に上陸して背後に迫った場合には、全軍を大きく後退させることにした。そうしないと背後からロシア軍の連絡戦を遮断されてしまうからである。
それ以外の二方向から迫る日本軍の進攻に対しては、手持ち部隊を二分することで対処しようとした。日本軍の進路に兵力を配置することで、足止めを行う戦略である。兵力劣勢ゆえに個々のロシア軍の勝機は薄いが、戦うことで時間稼ぎにはなる。
こうして満州のロシア軍は、東部兵団と南部兵団に大きく二分された。クロパトキンは南部兵団には遼東半島に上陸し東進するであろう日本軍に対応させ、東部兵団には朝鮮半島から北上する日本の第一軍に対処するように処置した。
北上する第一軍の目標が遼陽である事は明白であったが、ロシア軍は兵力劣勢ゆえにこれを積極的に迎撃して撃破することは難しい。そこでクロパトキンは、東部兵団に時間稼ぎと第一軍の行動監視を行わせることにした。
ここでロシア軍が第一軍の行動を妨害しようとする場合、都合のよい地形が二カ所考えられた。ひとつは国境の大河「鴨緑江」で、もうひとつは遼東半島の背骨というべき山地「分水嶺」である。
 防戦主義のロシア軍
ロシア軍には、日本軍の進攻以前に韓国領内に侵入する方策もあり得たが、鴨緑江の対岸に進出して守る程の地の利もなく、大軍を迅速に送り込むこともできない。そこでクロパトキンは韓国内での行動は騎兵による偵察と監視にとどめ、最初の防衛は地形の有利な鴨緑江で実施することにしたのであった。
明治37年(1904)4月22日、東部兵団指揮官として着任したザスーリッチ中将が受領した命令は、「兵団は地形を利用し敵の鴨緑江渡河を妨害し、かつ分水嶺以北に前進するを阻止するべくなお敵の兵力、編組及びその行進方向を偵察すべし」「兵団は軍の有力なる首力と合する以前に敗北せざらんか為優勢なる敵に対して決戦を避くべし退却するにあたり、街道を監視し各峠は敵をして迂回せざるを得ざらしむるごとく之を扼止すべい」となっていた。
要するに、鴨緑江の地形を利用して守れ、しかし東部兵団が各個に撃破されては困るから、日本軍が優勢なら決戦を挑まず退却しろ、退却するときも日本軍の行動を監視して峠を簡単に突破されないようにしろ、ということである。




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