1・「大うつけ」信長
大うつけの青年期

    「信長公記」
若き日の織田信長はよく知られているように奇矯なふるまいが目立ち、「大うつけ」と呼ばれていたという。「信長公記」では次のように伝えている。
信長十六・七・八までは、別のお遊びは御座なく、馬を朝夕御稽古、又、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり、竹槍にて叩き合い御覧じ、兎角槍は短く候ては悪しく候わんと仰せられ候て、三間柄(約5.4m)・三間真中柄(約6.3m)などにさせられ、其の比の御行儀、明衣(ゆかたびら)の袖をはずし、半袴、ひうち袋、色々余多付けさせられ、御髪はちゃせんに、くれない糸・もえぎ糸にて巻立てゆわせられ町を御通りの時、人目を御はばかりなく、くり・柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくひになされ、町中を立ちながら餅をまいり、人によりかかり、人の肩につらさがりてより外は御ありきなく候、其比は、世間公道なる折節にて候間、大うつけとより外に申さず候。
軍事教練にいそしむ一方、わざと異形な出で立ちで、だらしなく振舞っていたことがうかがえ、大人たちからひんしゅくを買っていたことがわかる。ヤンキーのような不良のほうが将来大物になる、という見方もあろうが、この信長の態度を歴史的な背景から見ていきたい。
    中央の文化や権威とは
さきの「信長公記」に「其比は、世間公道なる折節にて」とあるが、「公道」というのは、上品、高尚といった意味とされ、文意は、信長の死後すなわち「信長公記」が書かれたころとは違う、もう少し繊細な行儀作法や社会常識があった。だから「大うつけ」と呼ばれたのだ、ということになる。
それが何かというと、基本的には京都の文化や権威などである。戦国時代も末期に入り、権力は完全に各地域の戦国大名に移ってはいるが、中央政権は依然として室町幕府であり、朝廷であった。そして、その権威や文化、すなわち官位や、歌や鞠といった教養を身に着けることが大名としての権威づけにつながっていた。武力が強いだけでは、真の実力者として認められず、安定した権力になることができなかったのである。信長の父信秀もまた例外ではなく、京都からやってきた公家を丁重に扱って家臣など周囲の武士と共に芸能を学び、また内裏の修理費などとして、朝廷へ多額の献金をおこなっている。「三河守」の官位も、伊勢外宮仮殿替費の拠出によって得たものであった。
    実力者であればこそ権威が必要だった
近年の発掘調査で明らかになってきたことだが、当時の有力武家の館は、室町幕府すなわち京都の将軍邸が規範になっている。15世紀前半からすでに、将軍の直臣である各地の国人は京都の「花の御所」に似せた館をつくっているし、応仁の乱以降任国に下向し、本格的な領国の中心地として守護所を建設した守護たちも、やはりその館は将軍邸そっくり、すなわち、平地に作られた方形の館で、内部には庭園とそれに面した会所を持ち、また外には室町幕府の屋外儀礼である犬追物の馬場がつくられていた。こうした館を持つことが、大名としての権威を保つうえで必要だったのである。信秀の居城勝幡もまた、このようなタイプのものだったに違いない。
このようなことは、当時の大名たちの名前を見てもわかる。織田氏の主家斯波義廉をはじめ、今川義元、佐々木(六角)義堅、朝倉義景、大内義隆、大友義鎮(宗麟)、島津義久・義弘など、いずれも名前に「義」の字がついているのは、言うまでもなく将軍足利氏から名前の一部をもらう、「偏諱」を賜るという行為である。権威の源泉は京都にあり、その真似をするのがすなわち権威だったのである。
(ただし、東国の大名は比較的それから自由だったようだ)





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