大坂へ
 ~大坂牢人衆~
 


 牢人に頼らざるを得なかった豊臣家
「長沢聞書」によると。
一、大坂衆、騎馬百騎より上を扶持致し候衆。
 大野修理、同主馬、真田左衛門尉、長宗我部、明石掃部、仙石豊前守、森豊前守、木村長門、浅井周防守、後藤又兵衛
 右之衆中也。
とある。
扶持百騎以上という大雑把なくくりであるが、主だった顔ぶれは揃っている。しかし、大野修理・主馬の兄弟、木村長門守(重成)以外は全員が牢人衆であった。こうした一手の大将を任じる人材にも事欠いていたというのが、当時の豊臣家の実態であった。
今度の東西手切れで、豊臣家に味方する大名は一家も現れなかった。そこで、大坂方は多数の牢人を募集する他、各地に逼塞している関ケ原の負け組大名やその子弟、名のある武将にも誘いの手を伸ばした。大坂の陣で活躍する牢人衆と言えば、まず真田左衛門佐信繁(幸村)、後藤又兵衛、明石掃部、長宗我部盛親などの名があがる。江戸時代初期、宇佐美定佑によってまとめられた「大坂御陣覚書」では、こうした豊臣方諸将の諱がほとんど不確かである。
毛利勝永もその牢人衆、すなわち新座衆の一人である。真田、後藤、毛利、明石、長宗我部など、主だった彼らは新座頭と呼ばれた。
 豊臣方五人衆
毛利勝永は、真田、長宗我部とともに三人衆とも呼ばれた。この3名は、曲がりなりにもかつては大名であったり、その子弟であったからであろう。一方、後藤と明石は、それぞれ黒田、宇喜多という大名の家臣であり、豊臣氏から見れば陪審にあたる。しかし、いずれも世にその名が知れた将帥であるため、大野治長が先の三人衆に諮って軍議に列することを承諾させたという。その後藤、明石を加えて五人衆と称されることもある。
福本日南は、「大坂城の七将星」において、先の五人衆に加えて木村重成、大野治房をあげている。
こうした牢人衆は、城内においても一定の発言力をもっていた。「武功雑記」によれば、博労ヶ淵、穢多ヶ崎、福島の各砦を構築し、これに兵力を入れることに、真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、明石掃部などが同心しなかった。牢人衆の懸念は「其故人数は方々へ分かち置かば城兵少なくなるべし、其上に取手を一箇所にても敵に取られなば城兵の心の弱みとなるべし」というものだった。しかし、秀頼の側近たちはこれを容れなかった。
結局、牢人衆たちの主張を裏付けるかのように、11月中に主だった砦は寄せ手によって陥落し、城方は城内へ撤収した。
 冬の陣での勝永
さて勝永だが、積極的に軍略を講じて自ら主張した形跡はうかがえない。そもそも勝永は、冬の陣においては目立った活躍を見せていない。勝永がどこを守備していたかさえ明らかではないのだ。
今日に伝わる大坂冬の陣図では、城の西北隅、現在の今橋付近にあたっていたということになっている。この方面では特筆される戦闘はなかったが、勝永の正面に対峙していたのは、鍋島勝茂であった。勝永と鍋島勝茂とは、関ケ原合戦での対処に明暗が分かれた。
勝茂は、山内忠義に対し、勝永の身の上の事をくれぐれも頼むと委嘱するところがあり、以来両家は昵懇の間柄になったという。かつて、勝永と鍋島勝茂とは、関ケ原合戦直前まで行動を共にしていた仲である。また、勝永の亡くなった妻は、鍋島勝茂にとって主筋である龍造寺家の姫であった。
また、やや南へずれてはいるが、山内忠義の軍勢も陣をしいていた。山内勢の中には、勝永の家臣だった鳥飼左助の姿もあった。山内家に仕官し、主人から「武辺場数覚えの者」と賞され、覚兵衛と名を改めた鳥飼は、かつて伏見城攻めにあたって、旧主勝永と並んで城に火矢を射続けた男である。そして、15年余りを経て、主従は敵味方に分かれて相対することになった。
勝永は、山内勢の先手へ両度にわたり、矢文を射こませた。矢文には、累年の芳情への謝礼、及び籠城に至った子細が記されてあったという。




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