大坂へ
 ~真田丸の攻防戦~
 


 真田丸
冬の陣で最も有名な戦いと言えば、真田信繁が守る出丸(いわゆる真田丸)を巡る攻防戦である。この戦闘の主役は、後世「真田幸村」として知られるようになる真田信繁である。「長沢聞書」には、「真田左衛門は四十四五にも見え申候。ひたひ口に二三寸ほどの疵あと有之。小兵なる人にて候」と記されている。
冬の陣を描いた図には大坂城本丸から南に大きく突き出た砦が描かれているが、信繁が指揮した出丸「真田丸」が実際はどのような形状だったのか、現在でも確実な事はわかっていない。
そのそも、真田丸の正確な位置も判っておらず、真田の抜け穴がある事で知られる三光神社境内がその一部であるとも言われるが、実際は神社よりやや西よりとする説もある。現在では、心眼寺の境内と明星学園の敷地、それに三光神社までを含めた広大な丘陵部が真田丸遺構と考えられている。
 激戦
12月4日明け方、真田丸を攻撃したのは、前田利常の先手であった。これを抜けがけと見た松平忠直、井伊直孝らの軍勢も出丸に取りかけた。真田丸は三方に堀を巡らせ、その上に構築された柵には狭間が切られており、そこから繰り出す銃撃に寄せ手は苦しめられた。この戦闘における死者は数千にものぼったといわれる。
真田丸の激闘は、その呼称からして、信繁一人が脚光を浴びているが、実際には木村重成、長宗我部盛親の手勢も守備に当たっていた。
真田丸の攻防戦に先立ち、冬の陣最大の激戦となった鴫野・今福の合戦では、木村重成、後藤又兵衛らが奮戦し、今福の戦いでは佐竹義宜の軍勢を混乱状態に陥れた。佐竹隊は家老渋江政光が討たれるほどの苦戦を強いられたが、鴫野方面での合戦に打ち勝った上杉景勝勢が大和川を渡河、側面から援護射撃を行ったため、佐竹隊も窮地を脱して城方を敗走させた。
攻防の焦点は、大和川の両岸の堤上に設けられた鴫野及び今福という砦の取り合いであったが、結果的に両砦とも寄せ手側に落ちてしまった。
 勝永、今橋方面を守備
激戦が繰り広げられる冬の陣において、勝永の記録がほとんど残っていない。今橋方面の守備に当たっていたとされるが、この方面では目立った戦闘はなく、従って周辺に布陣した諸将の動きが詳しく記録されることもなかったようだ。
また勝永は、土佐から大坂へ赴くという地理的な問題もあって、牢人衆の中では入城時期が最も遅かった。牢人衆の入城は10月頃から始まっていたが、勝永の入城は11月以降と思われる。すでに、入城していた牢人衆におって大方の持ち場が決められていた。勝永は、真田信繁のような「真田丸」のような持ち場を与えられてはおらず、かといて、後藤又兵衛と異なり城外へ出戦できる数千の麾下を付与されてもいなかったのではないか。
なお、軍記物の「新東鑑」が、勝永と毛利勢の冬の陣の動向を記している。土佐を発した勝永が、摂津灘(大阪湾)へ至ったとき、尼ケ崎の領主建部三十郎正長の番船によって荷船を抑留された。仕方なく、毛利主従はほとんど身一つで入城した。その後、豊臣家の水軍を預かる樋口淡路守とともに尼ケ崎を急襲し、放火した。この時、宮田甚三郎が建部方の首級一を獲ったという。
大坂方の尼ケ崎攻撃は、勝永入城以前の事と考えられ、事実として認められないが、今橋の守備につく傍ら、浮き勢としてこうどうしていたのではないだろうか。




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