おね―北政所
 ~生年と出自~
 


 生年
たいがいの歴史関係の書籍では北政所=高台院の稿を引くと、天文17年(1548)生まれとするものが多く、それが定説として受け入れられている。だが、いずれの書籍もその出典が何であるかの論拠はない。
田端泰子氏は、「ミネルヴァ日本評伝選」において、「北政所おね」で「寛政重修諸家譜」巻第309の「浅野家系譜」に「9月6日逝す。年83」とあり、これが寛永元年(1624)のおとなので、逆算して天文11年の生まれとなるとしたうえで、その「浅野家系譜」の注記に「寛永の木下系図に76に作る」との異説のある事を紹介している。寛永元年に76で没したとすれば、逆算すると天文18年の生まれとなる。天文11年の生まれとするならば、通説とは大きく異なるし、18年としても通説とは1年の違いがある。
田端氏は、秀吉との結婚の時期から見て天文11年の可能性が高いとされているが、「義演准后日記」に、木下家定のことをおねの「舎兄」と記しており、家定の生まれは天文12年なので、天文11年誕生説には従いずらい。
もっとも、天文18年生まれかと言われれば、それも「寛政重修諸家譜」だけの記載なので心もとない。通説の天文17年という史料的根拠が何なのかの問題はあるにせよ、それを否定する明確な根拠や材料がない以上、従来の通説通り、天文17年の生まれとしておくのが妥当なのではないか。
 複雑な出自
おねの出自も生年同様に、複雑な問題を抱えている。普通、父は杉原助左衛門定利、母は朝日とされているが、母の実家が木下氏で、父杉原定利が、妻朝日の父木下家利の婿養子となる形で、木下祐久と名乗っていたのである。
おねと秀吉の結婚話がもちあがったとき、おねの母朝日がそれに猛反対を唱えたというのは、自分の家が木下という苗字を持ち、れっきとした武士の家であるにもかかわらず、苗字を持たない秀吉との身分違いの結婚に異を唱えたからである。




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