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 おね―北政所
 ~秀吉との結婚~
 


 実母の猛反対を押し切って
おねと秀吉の結婚は、「木下家譜」によると、永禄4年(1561)8月3日の事という。日程までの断定はともかく、秀吉の年齢を考えると、永禄4年ごろというのは妥当なところだと思われる。その年、秀吉は25歳、おねは、天文17年(1548)誕生説をとれば14歳である。
この結婚には、実母の朝日が猛反対したと言われている。つまりこの結婚は、親が決めた結婚ではなかった。おねは従来、浅野又右衛門長勝の養女として幼い頃から養われてきたと「木下家譜」の記述によって考えられてきたが、長勝の妻七曲がおねの実母朝日の妹だというので、実際には「親類として親しい関係にあった浅野家が、おねの実母の反対を見かねて養女として婚姻させたとも考えられる」(田端泰子氏説「北政所おね」)というところであったようだ。
このころ、浅野長勝は織田信長の弓衆で、秀吉はまだ足軽だった。婚礼は清須城下の足軽長屋で行われたが、土間に巣搔藁を敷き、その上にござを敷いて座敷のようにしたと伝えられるように、極めて質素なものだったことが伺われる。ただ、媒酌人を信長の従兄弟にあたる名古屋因幡守がつとめているところをみると、信長公認の結婚だった可能性もある。
 子が産めなくなったおね
親の反対を押し切って結婚しただけあって、夫婦仲は至ってよろしかったらしい。しかし、子供には恵まれなかった。この点について江戸時代に林元美が著した「爛柯堂棋話」という本に興味深い話が紹介されている。
おねは結婚早々懐妊した。しかし、おねもまだ若く、生活が苦しく、秀吉も子供ができては出世の妨げになると考え、中椿という医師を訪ね、「子おろし」の灸をすえたというのである。いまでいう妊娠中絶手術のようなものになろうが、そうして流した子が3人いたという。
その後、子供が欲しいと思っても、とうとう子供はできなかったというのである。
おねに子供ができなかったということから、何者かがこのような憶測を交えた話をでっち上げた可能性もあり、何処まで信憑性がある話なのかも分からない。しかし、現在でも、妊娠中絶を繰り返した結果、不妊になってしまった女性がいることも事実なので、この話も全く虚妄の説とは言い切れない。一つの可能性のある説であろう。




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