小栗上野介と横須賀
 ~横須賀へ~
 


 栗本鋤雲の活躍
江戸幕府の運輸船・翔鶴丸の修理を横浜に入っていたフランス軍艦ゲリエール号にしてもらうプランが出た。このプランをフランス人と親しい目付・栗本鋤雲を通じて、話をしてもらおうということになった。栗本は急ぎ横浜へ向かい、フランス公使ロッシュに相談をした。ロッシュは、軍艦の司令官ジョレスに話をし、後程返事をくれることになった。さらに幸いなことに、この日六つ時に司令官と艦長が、ロッシュの館に来ることになっていたので、その時に直接頼んでもよいというアドバイスをくれた。
夕刻、再びロッシュのもとを訪れた栗本が、単刀直入に話を切り出すと、両人とも快く承諾してくれた。翌日、結果を幕府に報告すると、たちまち栗本に修理監督官の役が来たが、当時軍艦奉行並であった木下謹吾と相談をして、二人でやることにした。
フランス軍艦からは、士官のドロートル、蒸気手のエーデ他十数名の人が力を貸してくれ、60日余りで、機関の損傷個所をはじめ、内部外部ともに完璧に修理ができた。
なぜ、栗本にこんな力があったのだろうか。栗本は、前職が箱舘奉行所の組頭であり、ここでフランス人宣教師のメルメ・カションに日本語を教える係であった。カションに日本語を教えるうちに自分もフランス語ができるようになったのだ。
このたびの転勤で、目付として横浜港の立ち合いを命ぜられ、会議に出席したら、公使付書記官としてカションがいたので、旧交を温めるようになった。
 小栗登場
翔鶴丸の修理がほぼ完成に近づいたとき、一人の役人が見分に現れた。その人物が小栗上野介忠順であった。小栗と栗本は竹馬の友であり小栗が気を許せる一人であった。
「栗本鋤雲遺稿」によると、元治元年(1864)11月初旬に、小栗がロッシュに謁見し、製鉄所を創設するにあたって、専門知識のある人物が必要であることが二人の間で話し合われていることがわかる。二代目のフランス公使として横浜へ着任したロッシュは、ナポレオン三世から幕府との接触を積極的に行うよう命令されていたので、着任早々から活発な外交を始めていた。
幕府にしてみれば、安政5年(1858)にロシア、フランス、イギリス、オランダ、アメリカと通商条約を結び、横浜を開港したものの、当時の蒸気船は長い航海をした後には、ドックに入れて船体とボイラーを点検、修理する必要があった。五か国から開港場近くに艦船を修理する場所が求められていたのである。
勘定奉行であった小栗は、この要求に応えるため、どこの国と連携してやることが良いのか思案していた。イギリスはアヘン戦争情報などや生麦事件処理の強引なやり方に反発しており、ロシアは外国奉行就任後の対馬占拠事件で印象は良くなかった。オランダは当時の国力からすでに無理であったし、アメリカは一番信頼していたが、南北戦争でそれどころではなかった。結局残ったフランスが、先に示したように最も積極的であり、さらに信頼できる友人・栗本とカションが通詞なしで話ができる強みがあった。
造船所の建設場所が水深やドックを建設するときの岩盤の強度から横須賀に決まり、その指導者がフランソア・レオンス・ヴェルニーに決定した。中国にいたヴェルニーは日本に呼ばれ、横須賀へ到着したのは元治2年(慶応元年、1865)1月26日。すぐさま日本側の測量グループに加わって調査をし、ロッシュに横須賀製鉄所建設に関する報告を行い、ロッシュと幕府の間で建設計画が承認された。
こうして、慶応元年9月、横須賀製鉄所の鍬入れ式が実施され、工事が始まった2年4月、ナポレオン三世の許可書をもってヴェルニーが正式に赴任した。




TOPページへ BACKします