小栗上野介と横須賀造船所
 ~製鉄所を江戸近隣に~
 


 製鉄所を何処へ?
安政4年(1857)6月、露使節との交渉の為長崎に滞在中の海防掛目付岩瀬忠震は、2年前に長崎在勤目付永井尚志が注文した鉄類製法の機械を蘭船が持ち渡ったことを江戸の同役に知らせるとともに、設置場所を早く決める必要があるが、私見では、鉄がなく、地所も狭隘な長崎は不可、江戸近傍が最善、箱舘が次善と書き送っている。幕府で設置場所が議論されたとき、海防掛の大目付・目付は、砂鉄の産地が近くに無く、諸色を他国に依存する長崎では国力の疲弊を招くとして、断固江戸を主張したが、聞き容れられなかった。米公使ハリスの出府をめぐる幕議の紛糾ぶりからしても、既に長崎・箱舘・横浜を開港した万延元年(1860)12月ですら勘定所の有司は非開港場に外国人が居住することを理由に造船局の浦賀設立に反対したことを見ても、江戸近傍に外国人が足を踏み入れることを嫌う有司が多数を占めたことは想像に難くない。こうして長崎に日本最初の製鉄所が設立された。
安政5年に幕府は米蘭露英仏と相次いで修好通商条約を締結し、翌年、貿易港として長崎・神奈川・箱舘を開くと、急速に拡大した外国貿易の影響を受けて、国内経済は混乱に陥った。しかも、来航した外国船によって不測の事態が生じても、幕府の保有する蒸気軍艦は四艘に過ぎなかったため、万延元年(1860)正月15日に安藤信正が若年寄から老中に転じ、3月3日の桜田門外の変の後、閏3月1日に久世宏周が老中に返り咲いて、久世・安藤政権が成立すると、幕府は国内経済を立て直すとともに、有事に備えた富国強兵策を展開することになる。

 造船局設立へ
万延元年11月に安藤から軍艦建造の英米委託の評議を命じられた外国奉行と水野忠徳は、12月、軍艦建造の急務を説き、速やかな英米両国への軍艦発注を上申したうえで、次のように建議した。
海軍の振興には軍艦の国内建造が必要なので、蒸気機関等の製造に不可欠な高炉・蒸気鎚等を軍艦と同時に発注し、造船局を設立すべきである。諸器製造局の多さで国威を示すのが西欧諸国の習いであるから、造船局の設立により我が国威も増すに違いない。設立の場所は軍艦奉行に下問されたい、と。
一方、老中の命により12月に軍艦の国内建造と造船具の外国発注について評議した勘定所の有司の答申は次の通りである。船質の上からも経済効果の点からも、国内で軍艦を建造すべきである。造船具については、長崎に到着次第、佐賀藩献納機械を江戸に取り寄せ、造船局内かその近辺に設置すればよい。造船局の設立場所については軍艦奉行に諮問されたい、と。江戸に工作場を設立し、工作場奉行に管轄させ、同局で日用品の製造から造艦・鋳砲まで行えば利益は莫大で、造艦費を賄えるということを主張したようだ。
安藤は大艦修復場の設立を決め、翌文久元年(1861)正月に江戸内海の測量を行う軍艦奉行に横浜から観音崎までの間で適地を探すように命じた。ところが、軍艦奉行が適地を報告したにもかかわらず、5月に大艦修復場設立の中止と造船・修船の長崎製鉄所一本化が決まった。これには、長崎製鉄所の二つの事情が関わっている。第一に、ドックを備えた修船所の設立を英領事が求めたため、船底修理施設の無い製鉄所の現状に危機感を抱いた長崎奉行が万延元年6月に造船台の築造を幕府に上申して承認されたこと、第二に文久2年2月に幕府がコルベット一艘の建造を長崎奉行に命じ、機械・資材の調達と外国人技師の招聘を奉行の裁量に任せたこと、の二点である。造船台を築造し、コルベットを建造した暁には、長崎製鉄所は修船・造船能力を完備することになる。逼迫した幕府財政では、長崎製鉄所と同様の施設をもう一カ所設立するだけの余裕はなく、造船と修船を長崎製鉄所に一本化すべきであると強く主張したため、中止に至った可能性が高い。
 遅々として進まぬ
その後の長崎製鉄所であるが、造船台については、築造場所を岩瀬道に決め、オランダから技師を招聘し、資材を輸入し、立神造船場の造成を終えたものの、付属施設の建設は資金不足から着手できず、船材の調達の遅れも重なり、横須賀製鉄所の設立を決めた幕府は慶応元年(1865)12月に中止を命じた。ただ、多数の機会が輸入されたことによって、当初は欠けていた蒸気機関の製造・修理能力を完備し、慶応2年には文久元年の三工場から鍛冶場・鋳物場など六工場編成に整備・拡充されたが、それでも修船能力が限定された影響は大きく、船底修理を行おうとすれば、上海か効率の悪いドックのある浦賀へ回航する他なかった。
安藤が老中を罷免された直後の文久2年4月25日、久世は勘定奉行松平康正・外国奉行岡部長常・目付服部帰一・勘定吟味役立田録助に蒸気機関取立御用掛を命じ、若年寄の酒井某・稲葉正巳に統括させた。御用掛は蒸気機関を備えた施設を工作場と呼んでおり、造船局が付設されることになっていた。では、この工作場は前年の大艦修復場の復活かというとそうではない。強兵策と並行して幕府は、国産の増殖による国益の拡充と外国貿易の開始により困窮に陥った上下一統の救済のために富国策を展開していた。その富国策を主導する久世が御用掛を任命し、彼等に下した書取で国益の拡充と同の海外濫出防止に一役買うと謳った工作場が富国策として企図されたことは明らかである。
5月、御用掛は、佐賀藩献納機械とその据え付け方絵図面、高炉、反射炉、工作場の雛形の府内廻漕を長崎奉行に依頼するとともに、設立場所の見分、佐賀藩献納機械の据え付け、今後オランダに発注すべき機械の調査のため蘭人造船技師・職人の府内派遣について差し支えの有無を奉行に打診した。さらに長崎製鉄所に関わった永持享次郎等三人を長崎から呼び寄せ、6月には永持を設立場所の見分の為三浦郡に派遣した。このように御用掛は迅速に事を運んだが、7月10日に中止が命じられた。中止の理由は明らかでない。




TOPページへ BACKします