小栗上野介と横須賀造船所
 ~製鉄所建設へ~
 


 栗本鋤雲の回顧録
旧幕時代に目付・外国奉行等幕府要職を歴任した栗本鋤雲は、小栗上野介とともに横須賀製鉄所の創設に関わったことでよく知られる。維新後、言論界に転じた鋤雲は、郵便報知新聞の主筆として名を馳せ「出鱈目草紙」「独寝宸言」といった同紙のコラムに旧幕時代の回顧録を数多く残している。その一つが「横須賀造船所経営の事」で、明治11年8月に横須賀製鉄所の創設を回顧して鋤雲はかく語る。
「元治元年(1864)11月下旬であったか。目付として横浜在任中、突然、私は若年寄酒井忠マスに呼び出されて、仏人と親しいわけを聞かれた。仏公使館付書記官カションとは箱根在往時に日本語を教えた旧知の中であり、その縁でロッシュとも親しくなった、と私が答えると、酒井はこう述べた。当節、海軍局を一洗し、旧習癖風を改革するにあたり、第一に省くべき濫費は艦船の修理である。今度の翔鶴丸の修理は従前の轍を踏まないようにしたいので、横浜に停泊する仏艦の工手に修理を依頼できないか打診してほしい、と。すぐさま私は横浜に取って返し、ロッシュに相談したところ、仏艦には艦長のみならず提督が乗っており、提督に話を通す必要があるが、幸い夕方、提督と艦長が来館するので、相談してはどうかと勧められた。夕方、公使館を再訪した私は提督と艦長に修理を打診し、快諾を得た。翌日、復命した私に酒井は工事の監督を命じたが、私は不適任を理由に固辞し、軍艦奉行木下勤吾とともに事にあたり、修理を60日余で完了させた。
同年12月中旬、横浜で運上所からの帰途、私は英オリエンタル銀行との交渉を終えて帰府する勘定奉行小栗上野介に呼び止められた。小栗は、翔鶴丸を見分したが、見事な修理に感服したと褒め次のような相談を持ち掛けた。先年、佐賀藩が幕府に献上した蒸気修船機械一式のうち三分の二を長崎から取り寄せ、横浜の石炭庫に納めた。昨年、この機会をもって製鉄所とドックを相州狢ヶ谷湾に建設すべく掛を定め、測量も済ませたが、建設の適任者がおらず止めた。しかし、多くの機会を錆させて、佐賀藩主の芳志を空しくするに忍びない。ついては翔鶴丸を修理した仏人を率いて一骨折りしてくれまいか、と。」
 土蔵附売家の栄誉を残すべし
栗本の回想は続く。
「小栗の話を聞いた私は、製鉄所やドックには疎く、公使や提督の遺構も忖度し難いので承知せず、ロッシュと交渉後に返答することにして、小栗とともに仏公使館に赴いた。ロッシュも、製鉄所やドックのことはわからなかったため、提督を呼んで海軍士官のうちだれが適任かの判断を仰いだ。提督は上海出張中の一等蒸気士官ジンソライを推薦した。日本に戻り、佐賀藩献納機械を調べたジンソライは、機械は小振りで馬力も大きくないので、修船用として横浜に製鉄所を建て、そこに据え付ければ便利であると報告し、ドックの築造や艦船の建造のような大事業は非才の私よりも別人に依嘱したほうが良いと勧めた。私は小栗と相談した結果、欧米に軍艦を発注し、欧米の中古船を購入する以上、修船場は不可欠であり、他国に比すればまだしも信を置ける仏国にその建設を委託するのが良いということで意見の一致を見た。巨額の経費の捻出を心配した私は、今なら止められるので仔細を商量せよと忠告すると、必須の修船場の建設なら他の冗費を削る口実が得られるし、「又愈々出来の上は、旗号に熨斗を染め出すも、猶ほ土蔵附売家の栄誉を残す可し」と小栗は笑って答えた。こうして長崎に残る献納機械を取り寄せ、横浜の太田川縁の沼地を埋め立てて横浜製鉄所を建設する運びとなった。」
「一方、老中水野忠精・若年寄酒井忠マス等は命を奉じて仏公使・提督と議し、彼等が推薦するヴェルニーを上海から招いて、協議した結果、ヴェルニーを総裁として、横須賀にツーロンの海軍工廠の3分の2の規模の製鉄・修船・造船の三局からなる製鉄所を総額240万ドルの経費をかけて4年間で設立する協定を結んだ。」

以上が鋤雲の語る横須賀製鉄所創設の経緯である。ちなみに佐賀藩が幕府に献上した蒸気周旋機械一式とは、佐賀藩が蘭国から輸入しながら、購入予定価格が通商条約締結前後の内外通貨交換比率の相違により跳ね上がったため、攻城の建設を断念して、安政6年(1859)8月に献納を幕府に願い出た蒸気槌等の機会のことである。
 小栗の功績を仕立て上げた鋤雲
当事者だけあって、小栗なくして横須賀製鉄所の創立はなかったことを読む者に信じさせるだけの説得力が鋤雲の回顧録にはある。もっとも、長州征討を成し遂げた直後に小栗が3年半後の幕府瓦解を予見する「土蔵附売家の栄誉」という台詞を口にするのは疑わしいとして、ここに鋤雲の微妙な作為を読み取る向きもある。回顧録の類には記憶違いや事実誤認、事実の捏造などがつきものであり、迂闊に信じられないことは言うまでもない。そこで鋤雲の回顧録の信憑性を確認するため、他の史料を見てみると、意外なことに、小栗がロッシュに会って、製鉄所建設の適任者の推薦を依頼したのは11月3日、仏人による修理を受けるため翔鶴丸を早々に横浜に開港すると軍艦奉行並が上申したのは12月である。要するに、鋤雲の回顧録と違って、実際には翔鶴丸の修理と小栗・ロッシュ会談の先後が逆で、小栗が翔鶴丸の修理に感心して、仏人による製鉄所建設を鋤雲に持ちかけることなどあり得ないわけだ。
鋤雲は手記・手冊の類を火に投じたため、「少錯無きを必し難し」とあらかじめ断っているが、同時期の製鉄所の創設と翔鶴丸の修理を混同したにしては手が込みすぎており、これは「少錯」で済まされる話ではない。鋤雲は、非業の死を遂げた小栗を悼んで花を持たせるべく事実を並べ替え、創作を挟んだのであろう。幕府の文書に小栗の名は散見されても、肉声が聞こえてくることはないから、小栗の気概を現す言葉として人口に膾炙している先の名台詞を鋤雲が創らなければ、小栗の名は忘却の淵に沈み、横須賀市のヴェルニー公園にヴェルニーと並んで胸像が建てられることもなかったかもしれない。小栗は、あの世で鋤雲に感謝しているかもしれない。
鋤雲が小栗を横須賀製鉄所創立の立役者に仕立てたことは、立役者は他にもいることを端的に物語っている。では誰が横須賀製鉄所酢率を決意し、小栗はどのような役割を果たしたのであろうか。




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