小栗上野介と横須賀 ~小栗死しても横須賀死なず~ |
しかし、実際には生活習慣の違いで両者ともに戸惑う場面こそあれど、比較的コミュニケーションはよくとれており、いがみ合うようなことはなかった。両者の間には相手を思いやる気持ちがあったからであろう。例えば、日本側は横須賀で働くフランス人が暴漢などに襲われないよう、横須賀への出入り口にはすべて番所を置いて警戒に当たっていた。 また、フランス人からの提案で、日本で最初の運動会が行われた。フランス人と日本人が打ち交じり、綱渡り、帆柱登り、走馬競(流鏑馬のような競技)青竹渡りなど、日仏合同の多彩な種目が行われた。この催しの2か月前に、新政府が幕府からの製鉄所を接収し、日本人労働者はもちろん、フランス人でも世情に不安を抱えている時期でもあったため、久しぶりの楽しさに心和む一時であっただろう。
江戸時代の浦賀道は造船所のエリアも中心市街地も通らず、山の尾根を歩いていることからもわかるように、これらのエリアは江戸時代には海の中であった。この中心市街地に開発の手を入れたのは、浦賀・鴨井の素封家・若松屋をはじめとする民間人であった。 また、三浦郡長の小川茂周も、横須賀港が軍艦専用の港になったことを受けて、市民の生活物資の移入港として小川港を自費を投じて築いた。これらの開発は明治15年ころまでには出来上がり、小栗が造船所の設置を決めてからわずか20年足らずで、横須賀はその地形も大きく変貌している。 |