小栗上野介と横須賀
 ~小栗死しても横須賀死なず~
 


 ヴェルニーと横須賀
小栗が決め、ヴェルニーの手によって着実に建設工事が進捗している横須賀へ、国内外から多数の人々が見学に訪れた。その中に、フランス人貴族リュドヴィク・ドウ・ボーヴォワールがいた。慶応3年(1867)4月、横須賀へ来ていたボーヴォワールらは、横須賀に出現したフランス村を見て、ロッシュの手腕を称えるとともに、この地が小さな植民地になったとみていた。このときフランス人技術者45人、日本人労働者は1万2千人いたと言われてるので、ここに小さな植民地が誕生したとみられても不思議ではない。
しかし、実際には生活習慣の違いで両者ともに戸惑う場面こそあれど、比較的コミュニケーションはよくとれており、いがみ合うようなことはなかった。両者の間には相手を思いやる気持ちがあったからであろう。例えば、日本側は横須賀で働くフランス人が暴漢などに襲われないよう、横須賀への出入り口にはすべて番所を置いて警戒に当たっていた。
また、フランス人からの提案で、日本で最初の運動会が行われた。フランス人と日本人が打ち交じり、綱渡り、帆柱登り、走馬競(流鏑馬のような競技)青竹渡りなど、日仏合同の多彩な種目が行われた。この催しの2か月前に、新政府が幕府からの製鉄所を接収し、日本人労働者はもちろん、フランス人でも世情に不安を抱えている時期でもあったため、久しぶりの楽しさに心和む一時であっただろう。
 横須賀の原型
横須賀の発展は、製鉄所が設置されたことから始まる。製鉄所は小栗が予言したように江戸幕府が倒れても、そして小栗本人がこの世を去った後でも、新政府へと引き継がれた。明治4年(1871)2月、5年の歳月を費やして1号ドックが完成し、4月には造船所の体裁が整ったことを理由に、横須賀造船所と名称が改められた。11月には、明治天皇が初めて横須賀を訪れ、造船所の見学をした。造船所がおかれたのは、JR横須賀駅の周辺と現在米軍海軍基地が置かれているエリアである。工事が竣工されたときから山が崩され、海が埋め立てられて、土地を確保していった。このエリアは幕府から明治政府へと引き継がれたものの、官が主導した造成工事であった。工事が進み造船所の仕事に従事する人たちが増えると、この人たちの住宅や生活を支える場所が必要になってきた。その場所が現在の京浜急行横須賀中央駅周辺である。
江戸時代の浦賀道は造船所のエリアも中心市街地も通らず、山の尾根を歩いていることからもわかるように、これらのエリアは江戸時代には海の中であった。この中心市街地に開発の手を入れたのは、浦賀・鴨井の素封家・若松屋をはじめとする民間人であった。
また、三浦郡長の小川茂周も、横須賀港が軍艦専用の港になったことを受けて、市民の生活物資の移入港として小川港を自費を投じて築いた。これらの開発は明治15年ころまでには出来上がり、小栗が造船所の設置を決めてからわずか20年足らずで、横須賀はその地形も大きく変貌している。




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