嘉永6年(1853)6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、侵入不可能な天然の要害と信じられていた江戸内海に二度にわたって侵入した。これに大きな衝撃を受けた幕府は、来春のペリー再来に備え、艦隊退去の1週間後に艦船のオランダからの輸入を決め、その交渉を長崎奉行に命じ、9月に大船建造禁止令を解いて、洋式軍艦の建造を大名に勧めるとともに、11月には本邦の精度に触れない限り、有用の西欧技術を積極的に摂取する政策への転換を宣言した。長崎奉行は、折しも通商要求と国境確定のために長崎へ来たロシア使節との応接に追われながら、オランダ商館長と精力的に交渉を進め、10月に来夏までに蒸気コルペットなど少なくとも7,8隻を廻航することで合意を見た。ところが、注文の艦船が着こうかという安政元年(1854)7月に入港したオランダ商船から欧州情勢を伝えられた商館長は、クリミア戦争の勃発によって局外中立を守る政府は武器・艦船を輸出できず、期限までに幕府の求めには応じがたいと奉行に伝え、再度の交渉の結果、9月にコルペット二艘の発注と海軍諸術の伝習の為の教官団の派遣が決まった。
安政元年閏7月、幕府と米露との交渉に関する情報収集を目的として長崎へやってきたオランダ艦スンビン艦長ファビウスは、海軍創設についての長崎奉行の諮問に答えて、蒸気軍艦を導入すれば、修船工場が必要となることを力説したが、当時、修船工場の具体的な像を思い描けるものは日本には誰一人いなかったに違いない。それでも安政2年6月に、将来の艦船の受注を期待してオランダが幕府に寄贈するスンビン(のちの観光丸)とともに派遣教師団が到着すると、伝習取締の長崎在勤目付永井尚志は蒸気機関の修理などに不可欠な諸具が
なくては湖沼が生じたときに差し支えると考えて、独断でオランダに蒸気機関・湯釜・鎔鉄炉付属の蒸気機械(工作機械)・蒸気鎚を発注し、11月にその旨を幕府に報じた。観光丸を一見すればすむ蒸気機関などと違って、工作機械と蒸気鎚の方は永井には皆目わからなかったはずで、教師団に同行したファビウスあたりに教えてもらったようだ。
安政4年6月に注文の機会がオランダから長崎に廻漕され、8月にはハルデス以下の技師・職工も到着した。10月から飽の浦で工場の建設が始まり、文久元年(1861)3月には轆轤盤細工所・鍛冶場・鋳物場からなる工場が落成した。これが蒸気機関を動力とする工作機械を備えた日本最初の工場である。日本にいまだかつて存在したことのない工場に対して、製鉄に鉄の加工の意味を込めて、製鉄所なる呼称が与えられた。なお、時として錬鉄所あるいは工作場が製鉄所の同義語として用いられることがある。
幕府は長崎の他に横須賀・横浜にも製鉄所を設立したが、明治4年(1871)4月、「造船を始め制作物等の場所製鉄所と相唱え候も不都合につき、鉱石をもって熔解鉄製到候場所は製鉄所と唱え候様支度」という工部省の主張を容れて政府は長崎・横須賀を造船所、横浜を製作所と改称した。もし工部省の人間が外務省の所蔵する幕府外国関係文書を調べる機会があれば、旧幕府時代には製鉄所は蒸気船のほか、武器類はもちろん、農具・釜・銅壺等日曜の雑具に至るまで百物を製造する工場を意味し、造船所を製鉄所と呼ぶことには何の不都合もないことを知ったであろう。しかし、幕政にも幕府の製鉄所の設立にも無縁の彼らは、幕府の用法を理解できず、この語を定義しなおしたのである。
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