2・小栗氏の出自 小栗家中興の祖・忠政 |
家康の小姓だった忠政 |
四代目の小栗又一郎忠政庄次郎。家康から又一の名をもらうほどの人物で、小栗家中興の祖ともいうべき人物である。 13歳から家康に小姓として仕え、元亀元年(1570)姉川合戦の時は16歳であったから、初陣で家康の側に仕えていたと思われる。敵兵が一人、家康の側近くに忍び寄ったのを見ると、とっさに家康の槍を取って渡り合う。そのうちに味方が駆けつけて敵兵を打ち取った。家康は忠政が若いのに機転が利いたことをほめ、今日の功績は一番槍にも勝る、と言ってその槍「信国」作を賜った。後々まで小栗家の家宝として伝えられる。 元来勇猛の気性であったらしく、そののちもたびたびの戦に忠政が一番槍を入れたので、家康の「小栗が又一番か、又一と名を変えよ」という言葉があって、又一に名を変え、小栗家代々の誉れとして継承してきた。「長篠合戦図屏風」に奮戦している「小栗又市」の名前がみられるように、もともと「又市」であったのを、たびたびの一番槍の功績で「又一」に変えたということらしい。 |
三河一向一揆 |
三河一向宗門徒の一揆に際し、父吉忠や忠政ら小栗一族は心を合わせて筒針の城をよく守り、家康のお褒めに預かったこおは、吉忠のところで述べたとおりである。 だが、これと矛盾する話が「徳川実記」にある。 家康は一向一揆で多くの家臣が門徒側についたので、鎮圧には大変手を焼いた。家臣のうち一向宗門徒側に就いた家臣を許すことによって温情を施し、以後の家臣団の結束を強める結果を得てゆくが、やはり門徒側についた小栗吉忠一族が帰参したとして、その時の様子を次のように話す。 家康は、いったんは門徒側についた忠政が帰参したところ、その胸元をつかんで「お前、今後は宗門を変えろ。そうでなければ今ここで斬り捨てる」と刀を抜いた。忠政は少しも驚かず、「お手討ちになっても改宗はしません」というのえ、「貴様のような奴は殺しても無駄だ」と突き放した。すると、忠政は「ただいまから法華宗に改めます」という。家康は「手討ちにあっても改宗しませんといったばかりではないか。どういうことだ」と咎めると、「武士たるものが御手討ちになるのが怖くて改宗するものですか。いま一命をお助けくださるというお言葉の有難さに、法華宗に変えます、と申したのです」と言ったので、家康も思わずお笑いになった、とある。そしてそのあとに続いて、「徳川実記」はこの話は石川又四郎のこと、とも記している。 「一説にはこの(忠政の)話は石川又四郎のことともいう。家康は一向門徒の乱のあと戻った石川の胸元をつかんで膝下に組み敷き、改宗を迫ったところ拒否するので、突き放して「お前は譜代のものではないか」というと、又四郎は「浄土宗に改宗します。先ほどどのように膝下に組み敷かれたのでは何としてもお受けできませんでした」と言ったので、お笑いになった。(徳川実記) 「妙源寺文書」では、これよりおよそ2,30年前の天文6年(1537)、7年、12年に小栗忠親が、天文11年に筒針孫太郎、同九郎左衛門信光が、それぞれ岡崎の浄土真宗高田専修派妙源寺に領地を寄進している。これらの人物が忠政以前のどういう人物につながるのかは判然としないが、小栗一族に一向門徒がいたことも否定できない。 忠政あるいは石川又四郎の武士としての豪胆ぶりを書こうとしているものか、家康の寛大さを書こうとしているのか、筒針城を守り切って褒められた小栗吉忠親子の話とは矛盾するが、こういったエピソードもある。 |