2・小栗氏の出自
桓武平氏小栗氏 

    小栗判官のモデル
忠吉、吉忠親子を養育して小栗家を継がせた先祖正重の家こそ桓武平氏小栗氏である。その桓武平氏小栗氏の系譜を追っていく。

常陸の小栗氏は、平貞盛の弟繁盛の曾孫重家から小栗保に住むようになり、郷名「小栗」を名乗る。
今日の茨城県西部、筑波山の西麓に広大な田地が広がる筑西市小栗の、小貝川に沿った一帯が小栗家発祥の地である。小栗城は栃木県との境近く、北東から延びる半島状の丘陵の先端およそ100mの小山で、小貝川が天然の堀としてめぐり、周囲は急な崖の山裾となっている。
小栗助重は嘉吉の乱に功があり、旧地を復すことができたが、康正元年(1455)足利成氏に攻められ、父満重とともに三河に逃れ、三河の小栗を頼る。
その後助重は、京都で出家して宗丹・自牧と号し、足利将軍に仕えて、当代第一人者と言われるほどの絵の腕を発揮したという。永享年中に剃髪して相国寺、大徳寺に入り、周文に就いて絵を学び幕府御用絵師となる。高野山別格本山金剛三昧院の襖絵などを描いている。狩野元信は門人である。文明18年(1486)没。「小栗判官照手姫」のモデルとも言われている。

    三河の小栗氏 
助重の先祖を遡ること四代、小栗詮重・遠江守の子に氏重がいて、その子基重は南北朝期に足利尊氏に属して功績があったので三河に所領を賜り、氏重の三男重弘・弾正忠も三河に所領を与えられていた。重弘のときから三河に住み、筒針に拠点を持って一帯に勢力を張っていたのであろう。

重弘から五代のちに正重の妹が岩津城の松平太郎左衛門信吉に嫁いで忠吉を産んだのち、実家である筒針城へ戻って忠吉を育てた。





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