2・小栗氏の出自
清和源氏松平氏 

    清和源氏松平氏
小栗忠順(上野介)の先祖は清和源氏松平系(家康と共通)、初代松平太郎左衛門信吉として、三代吉忠のとき松平から祖母方の桓武平氏小栗姓に移っている。
「小栗家先祖書」によれば、清和源姓・小栗・本苗松平・家之紋丸立波・替紋櫻花五三桐・幕之紋丸立波となっている。

 清和源氏松平氏

初代 松平太郎左衛門信吉 隼人正 三河国岩津城主

松平右京亮親忠の嫡子親長を養子に迎える。信吉は三河国筒針の城主小栗左京之進正重の妹を妻に迎え、男子をもうけるが(一郎)、7年後に死亡。養嗣子親長と信吉妻との折り合いが悪くなったので、小栗正重は妹母子を筒針城に引き取る。

二代 松平二右衛門忠吉 幼名一郎

7歳で父信吉と死別し、生母の実家筒針城で成長する。松平遠江守の妹を妻とし、大永5年(1525)男子を産んで妻は死去する。男子は小栗正重が養育して庄次郎と名付ける。忠吉は家康の祖父清康に仕え、せがれの庄次郎をまだ幼少の清康の子広忠の相手役として出仕させる。のち忠吉は京都の誓願寺住持が松平の一族だったので、誓願寺へ出向いたり、清康、広忠に仕えたりして、天文7年(15381217日、75歳で死去した。

    三代目の吉忠の活躍 
三代 小栗二衛門尉吉忠

祖母方の姓小栗を名乗る。幼名庄次郎。また吉政。

榊原摂津守とともに広忠の小姓を務める。広忠から一字をもらって吉忠と改名。妻は松平石見守女。

天文9年(154075日、16歳で三河上野の戦で敵と槍合わせをして、比類なき戦いぶりと称賛される。広忠の死後は家康に仕える。永禄元年(1558)今川義元の尾張大高城を織田信長の軍勢が囲んで、城内の食糧が欠乏したとき、家康の軍勢が織田軍を遮って城中へ兵糧米を運び込む際に、吉忠は鳥居四朗左衛門尉、内藤正成らとともに織田勢をよく抑えて戦功があった。永禄4年(1561)東條の吉良と藤沼縄手で戦った際、槍下の高名があった。永禄510月三河一向宗門徒の一揆に際し、家康の家臣にも門徒側に組みするものが多い中、吉忠一族は心を合わせて筒針城をよく守った。乱ののち吉忠の嫡男忠政が家康に賞賛された。

永禄12年、掛川の城を攻めたとき、六将の一人として先鋒を務める。天正12年(1584)小牧の陣において軍功著しく、抜群の功があったとして家康が着ていた具足と羽織を賜った。天正18年(1590)秀吉の小田原攻めのとき、家康は関東へ向かうため駿府の留守居役に吉忠を置き、秀吉の接待役を申付けた。吉忠は秀吉到着前から病気となったため、同心の伊奈熊蔵を道中の接待役として派遣して、その接待ぶりが秀吉に大変喜ばれた。

天正18916日、64歳で没。





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