文久2年(1862)4月11日、外交を担当していた老中安藤信正が罷免され、老中久世広周も多忙を理由に外交の第一線を退いて、代わって老中水野忠精・板倉勝静が外国掛を命じられた。こうして水野・板倉政権が成立すると、幕府は前政権の富国強兵策を踏襲し、前政権のなしえなかった江戸近傍における製鉄所の設立を実現する。
製鉄所設立のきっかけを創ったのは、文久2年閏8月17日に軍艦奉行並に任じられ、元治元年(1864)5月14日に軍艦奉行に転じた勝隣太郎(海舟)である。勝は、文久3年4月に相次いで摂海を巡見した将軍家茂と国事参政姉小路公知に随行する機会に恵まれた。23日に将軍が神戸に上陸した機をとらえて勝は神戸に操練所の解説を直訴して許され、翌日、神戸村操練所・造艦所取建御用及び摂海防禦向御用を命じられた。25日に西本願寺の宿舎で姉小路から摂海警備について問われた勝は、海軍の必須なる所以も長々と説いた結果、5月9日に朝廷は摂海警備に関する三カ条の命令を幕府に下し、第3条で便宜の地に広大な製鉄所を新規に設立して、攘夷に必要な堅艦・巨砲を各藩にも十分供給せよと命じた。
幕府は朝命に応えるべく石川島近傍に製鉄所の設立を企図し、きしくも小栗がロッシュに会った元治元年11月3日に軍艦頭取肥田浜五郎他2名が甲鉄艦製造機械の購入と造船場取建方仕法等の伝習のために蘭国に向け横浜から出港した。3か月後、横須賀製鉄所の設立を決めた幕府は、肥田に伝習を中止して、仏政府との交渉や技師の招聘・機械の購入のために仏国に派遣する外国奉行柴田剛中に合流を命じた。肥田はヴェルニーと購入した機械の日本廻漕を巡って対立し、また甲鉄艦建造の是非と造船所の立地条件に付いてパリで激論を戦わせたという。ヴェルニーとの議論の中で肥田は「現時、甲鉄艦の利は欧州海軍の公論なり。日本に於いて軍艦を製造する以上は十隻の木製艦を作らんよりは二隻の甲鉄艦を造るに若かず」と主張して、「いまや日本政府が巨万をもって敷くべしと云える製鉄所は即ち海軍アルセナルなぢ」と断じている。肥田の主張からして、「海軍アルセナル」つまり海軍工廠たるこの製鉄所を立案したのは肥田と見てまず間違いがない。
江戸近傍に製鉄所を設立しようとすれば、大方の見るところ適地は横須賀湾か狢ヶ湾以外になく、ヴェルニーは横須賀湾を選んだ。ところが肥田は、澪筋を掘るために蘭国から蒸気機械を輸入してまで、周囲に遠浅の海が広がり、大艦の建造には不向きとされる石川島・越中島近傍を適地と主張した。
肥田が石川島・越中島近傍を強硬に主張する理由は、慶応2年8月に肥田が製鉄所の横須賀から石川島・越中島近傍への移転を幕府に建議した上申書を一読すればわかる。製鉄所を護るにたる兵器がなければ、敵に奪取され、味方を攻撃する兵器製造に利用されることを恐れて、肥田は設立地の立地条件として自然環境よりも防備を重視したのである。富津・観音崎・十国台・猿島・旗山等の湾口の要所に巨大な台場を築き、「装鉄之蒸気浮台場」を配して外郭の虎口とし、羽田から品川沖に台場を築いて、「小型装鉄蒸気船」を配し、内部の虎口とする内海防備体制を構想した肥田が、外郭に近い横須賀を不適とし、内郭のうちにある石川島・越中島近傍を最適としたのは当然だろう。ここなら、万が一敵の手に陥っても江戸も同様だから、戦争は終局を迎える、と肥田は指摘する。肥田が欧米海軍の実情に通じていたのは間違いなく、クリミア戦争中の1855年にロシアのキンブルン要塞の砲撃に用いられたのが「蒸鉄之蒸気浮台場」であり、「小型蒸鉄蒸気船」とは南北戦争中の1862年5月9日にハンプトンローズで南軍のメリマックと砲火を交えた北軍のモニターのような軽喫水・低乾舷の装甲砲艦の類をいうのだろう。
|