小栗上野介と株式会社 ~ホテル開設~ |
幕府は安政元年(1854)に再度来日したペリーとの間に、日米和親条約を調印して、開国の第一歩を踏み出し、続いてイギリス、ロシア、オランダ、フランスとも同様に調印し、その条約の中で開港場と開市場を設けて、外国人が居留して貿易することを認めた。さらに安政5年(1858)に調印した日米修好通商条約で、開港場として神奈川・長崎・新潟・兵庫と函館の五港、開市場として江戸・大坂を約束し、それぞれの実行期限も決めていた。しかし、政治経済の混乱があって開港開市の延期を交渉し、江戸の場合は1862年(文久2)1月1日から1868年1月1日(慶応3年12月7日)に延期し、予定していた。イギリス公使パークスはその半年前に、幕府が築地鉄砲洲に予定した外国人居留地の中にホテルを新築することを求めてきた。
江戸で土木請負をしていた平野弥十郎は清水喜助とも親しく、この時のことを記した貴重な日記を残している。 十月より築地海岸を開き、外国人の為に立派なるホテルを建築せんと、幕吏小栗等之を企るに、国費多端の折からなれば、市民に地所を無代価にて貸与へ、是へ自費を以ホテル建設する者あらば、其ホテルよりより得る準益金ハ受負人の所徳たるべし、是に次ホテル地外同築地内にてホテル付属の建物をなす事何カ所たり共、同断無地代にて貸し下さるといふ内沙汰有る。(平野弥十郎幕末維新日記) この10月から、築地海岸を外国人に開放して、外国人の為に立派なホテルを建てようと、幕府の小栗上野介らが計画したが、幕府の財政は今厳しいので、土地を市民に無償で貸すから、自費で築地にホテルを建てる者がいれば、出来上がったホテルの純利益は請負人の所得としてよい。更に付属の建物も何カ所でもやはり地代を無償とするから、誰か建てる者はいないか。内々にこうした呼びかけがあった・・・というもの。パナマの鉄道会社と同じ株式会社の手法である。 これを受けて清水喜助は、慶応3年(1867)7月10日に、ホテル及び築地居留地に関わる建築・土木工事一式の、奉行所あて家主、五人組連署の請負願を提出した。
「ホテルの建物大小五棟」と「エンテルホットと運上所(税関)」を建築し、波止場の地ならしなどの土木作業を「自費」で行うとした。その代わりホテルの経営は「馴れた御国人を雇って自分が主人となるつもり」という申し出であった。 清水建設二代目の喜助は、富山県南砺市の出身。本名は藤沢清七。初代喜助が富山から江戸に出て成功し開いた「清水屋」え働いて婿入りし、安政6年(1859)5月、初代喜助の急死に伴って二代目を継いだ。幕府がこの年横浜村に港を開くと、それまで江戸で丹後宮津藩本荘家、彦根藩井伊家、肥前藩鍋島家等の御用達頭領となっていた清水屋は、その信用と人脈を持って横浜に進出し、幕府御用工事として戸部村の外国奉行所、宮ケ崎御目付長屋および奉行所武器庫、石崎関門並びに番所、野毛坂の陣屋前役宅、カットメハウス(カスタム?税関?)等を請け負い、横浜にも店を置いて差配し、完成させていた。 |