小栗上野介と株式会社 ~幻の船会社設立~ |
「偶然、小栗公との話で、信州越後の富豪を集めて会社を興し、船を造り外国との貿易をする話があり、幕府の蒸気船を拝借することができそうです。いま御府内にいるアメリカ人ウェンリイという人を雇って船と商売の指南役とすれば何とかなりそうです。信州にはそれほど富豪はいないが人物はいる。越後には富豪が沢山いるからそれらをまとめて、官船を拝借して組合を結社し交易をおこなうことは、ただ富豪のための産業ではなく、海外貿易を発展させ、ゆくゆくは造船まで行うことで、富国強兵につながり国民利福を図ることになります」 小栗の兵庫商社も、鴻山の船会社も、「国民利福」を共通の目的としていることが注目される提案書である。「武士は関与せず、町人だけで組織したい」という船会社の構想も、兵庫商社を大坂の商人だけで組織しているやり方と共通しており、「幕府が貿易の独占を図る」などと批判されるようなものではない。鴻山は続ける。 「産物を輸出品にすると、これまで通りの生産では品薄になって物価高騰を招くから、その手当てをする事も必要となります。産物として例えば、越後の赤倉でこの数十年ジャガイモを作っていますが、土地にあっていて、近頃は粉にしたり麺状にしたりして、菓子や蒲鉾のかてになるということで、僅かな土地で千金以上の産業となっています」 そしてこの件は、勘定奉行小栗上野介忠順との内々の教義を経ていることを匂わせる。 「愚意の趣一応上州(小栗上野介)へ拝謁、篤と申上候て取掛り申度ものに御座候 卯八月(慶応3年)」 鴻山にとって長年苦慮してきた、国の行く末にどう対処したら国民利福の道が開かれるかという課題に、小栗上野介の株式会社の構想が伝えられ、幕府の船も貸してもらえ、米人商人ウェンリイを商船の操作と売買の指南役に雇い、信越地域の物産として盛んになってきたジャガイモや養蚕を商売するという具体的な話となって、ようやく光が見えた思いであっただろう。大坂では小栗が興した兵庫商社が具体的に動き始めている。こうして小栗と意見の一致を見た鴻山は、この構想にかけて幕府の新しい国造りに参加することを夢見ていた。
慶喜は江戸城に戻ると、1月15日小栗を勘定奉行から免職、新しい人事で会計総裁に大久保一翁をあてた。大久保はすぐに終戦処理と資金づくりを考え、鴻山に江戸出府を促したが、鴻山は江戸に出ず、代わりに門人関谷与市を江戸に送る。与市の江戸出府は大久保邸ではなく、小栗邸へ行くことが目的であった。2月14日、与市は鴻山の知友両角玄修(松代藩医)に従って小栗邸を訪ね、土産を渡し挨拶。玄修は手紙で次のように記す。 「誠に小栗家が御役御免になって火が消えたようでございます。人の盛衰は測り難きものでございます」 幕府も小栗家も、火の消えたような様子を鴻山に報告している。さらに続ける。 「大久保一翁様も待ちかねているから、道中、馬でも駕籠でも一日も早く江戸へ出てきてほしい。天下に名医はいないのであなたのさじ加減について相談したい。あなたの薬が効かないと天下の命脈も絶えてしまう」 だがそれでも、鴻山は江戸へ出なかった。小栗の免職がよほどの衝撃であったことが伺える。船会社の構想が幻に終わる以上、小栗公のいない江戸へ出ても、どれほどのことができようかといった無念と絶望が彼を襲ったのだろう。
「慶応3年幕府の財政大いに潤し、吏を遣わして信中(信州)の富豪の金を募る。鴻山曰く、吾等三百年のカン虞の沢(よろこび楽しむことのできた恩)を受く、宜しく資産を挙げて以て危急を救うべしと、帰りて之を勘定奉行小栗上野介に報ず。上野介大いに喜び急使して之を召す。鴻山乃ち約して一万金を献ず」 実は小栗が権田村へ退隠する前、江戸に残って共に戦うことを誘った振武隊長渋沢成一朗(渋沢栄一の従兄弟)に対し、「将軍がもうすでに恭順されている以上は何の名義もたたない」と断り、一旦よが鎮まった後に、もし強藩が互いに勲功を争い内輪もめとなって群雄割拠するようなら、主君を奉じ天下に檄を飛ばすつもりはある、と、語っている。さらに言葉を継いで。「三百年にわたって施した徳川家の恩沢を、まだ忘れない者も多くいるだろうから、国内を再び統一することはさして難事ではない。またそのようなことが無ければ、自分は前朝の頑民(全政府の頑固者で、新政府には使えない者)として、田舎で世を送るつもり。」と述べている。 ここにいう「徳川家の恩沢を忘れない者」とは、小栗は具体的に誰をイメージしていたのか。この碑の「吾等三百年のカン虞の沢を受く、宜しく資産を挙げて以て危急を救うべし」こそまさにそれに呼応した言葉であり、高井鴻山が間違いなくその一人として、小栗の脳裏にあったことを証明している。 幕末動乱期に、江戸・信州と離れていながら、互いに心を通わせ、国民利福につながる国事にともに心を痛めていた人がいたことを物語る石碑の存在は、衝撃的である。 |