小栗上野介と株式会社 ~高井鴻山~ |
文化3年(1806)に生まれ、名は健。号は鴻山。儒学者の摩島松南に学ぶ。田舎での富豪の息子が京都で学ぶうちに遊びも覚え、紅燈の巷に出入りしてかなりの豪遊をしたこともあったという。 文政10年(1827)いったん帰郷した鴻山は再び上京し、梁川星厳に詩文を学ぶ。星厳は尊皇攘夷論者として知られる人物で、朝廷の勅許を得ずに開港したと幕府を激しく攻撃する志士たちの中心人物と目されていた。 天保3年(1832)星厳が江戸南八丁堀に住まいを定めると、鴻山も江戸へ出て佐藤一斉に学び、陽明学、儒学の他オランダ書物も学ぶ。江戸で多くの文人墨客と交わる中で、北斎との交遊も生まれた。 この頃、吉原や歌舞伎を題材とした浮世絵は爛熟期に入り、行き詰まりの中で弊害も見え始めて来ていた。広重や北斎は風景画の世界に浮世への新境地を切り開いて、庶民に迎えられるようになっていた。天保12年(1841)老中水野忠邦が「天保の改革」をおこし、風俗の取り締まりを厳しく命じると、浮世絵や歌舞伎にも取り締まりが及ぶようになる。北斎はこのままでは自分に追及の手が及ぶことを予感する。このころ鴻山は、たまたま町の祭屋台天井絵を描くことになり、これを北斎の助力を得て完成させようと考えた。こうして北斎は鴻山の委託を受け、小布施に80歳過ぎた身を4回も運ぶ。鴻山は邸内に離れ「碧い軒」を建てて、北斎を温かく迎え入れ、援助を惜しまなかった。
ペリーが去ると、幕府は大船建造の禁を解き、台場を築かせ、諸国の豪農豪商に御用金を課すなど、対策が大わらわとなった。この時鴻山は率先して協力、蔵を開いて貯蔵の籾を献納した。また安政2年10月の江戸大地震にも、貯蔵籾を献納するなど、幕府の献策に協力したことから、川路聖謨を通じて堀田備中守から銀2枚の褒美を与えられる。 鎖国攘夷を貫くためには、国力と海防の充実が必要と考えていた鴻山は、江戸遊学中に交遊のあった佐久間象山が嘉永7年(1854)門人吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座して信州松代に蟄居を命じられるとしばしば訪ね、あるいは書簡を交わすうちに、次第に鎖国攘夷論から開港論へと転換した。
具体的な小栗との交流とは、募金に対して幕府役人の撮った態度が傲慢であると鴻山にたしなめられ、江戸に戻った役人が高井の人物を小栗に報告したので、小栗が興味を持って招いたことから始まったと「高井鴻山小伝」にある。 鴻山の立場からすれば、江戸遊学中に学んだ師佐藤一斉は、小栗の漢学の師安積良斎の師でもあり、良斎が早くから商船隊による外国の通商貿易を主張していることもあって、幕政改革に奔走する小栗の存在は、鎖国攘夷から富国開国へと意見を変えた鴻山の考えと一致して、早くに知っていたはずで、この幕府を支えて公武一体・挙国一致の国造りを果たそうとの意を強くしていたものと思われる。 献金を約束したのち、鴻山は「鎖国は陳腐なるのみならず、海外の信用を失墜するものなり」とし、「大艦大砲の製作を奨励し、外国貿易の利潤を確認し、其通商貿易の道徳に合し、国際は信義を第一とすべし・・・・」と説く「幕政改革意見書」を上申していることも、その姿勢のあらわれといえよう。 こうして小栗邸へ出入りして時世を語り、国のあるべき姿を模索するうちに鴻山は、北信越の富豪の資本を合わせて船会社を興し、貿易振興によって国力を富ませる「船会社設立案」を松代藩へ上申するに至った。当時の北信州で株式会社の手法に着目して船会社の設立を目指す事は、驚くべきことといえるが、その具体的計画に、かなりの部分で日本最初の株式会社「兵庫商社」を作った小栗の示唆があったと考えられる。 |