小栗上野介と株式会社
 ~日本最初の株式会社~
 


 株式会社設立を建議する
パナマで株式会社の概念を把握して帰国した小栗は、帰国するとその機会を窺って慶応3年(1867)4月、兵庫開港を好機として、日本最初の株式会社「兵庫商社」の設立を建議した。趣意書には次の通り書く。
 
今度兵庫の港を開くについて、これまで横浜・長崎の港を開いてやってきたのはやり方がまずい。どの国も港を開くと、その国の利益になっている。ところが日本の商社は薄元手(小資本)の商人が厚元手(大資本)の外国人商社組合の商人にぶつかるから、結局日本の商人同士が競争させられて、利権は外国商人に持っていかれる。これは商人個々の損得の問題ではない。ひいては国の損得に関わる問題だからやめさせたほうが良い。今度兵庫の港を開くにあたっては大坂の商人20人ほどを選んで資本を出させ、商人組合を設立し、役員・定款を決め、加入したい人は一株いくらで誰でも入れるようにして、その組合を通して貿易をするようにしたい。その利益でガス灯・郵便制度を設ける、鉄道を敷く。
この記録を残した塚越芳太郎は、鳥渕郡岩永(高崎市)の出身の文筆家で、尾崎行雄東京市長のもとで「東京市史稿」の編纂に携わり、大正4年(1915)9月の横須賀海軍工廠設立50周年式典に際しては、その設立に小栗上野介の功績があったこと、およびその悲惨な末路を資料「小栗上野介末路事績」として印刷配布し、世に小栗上野介の名を広める契機を作った人物である。
 兵庫商社設立
小栗の提案は認められ、日本で最初の株式会社兵庫商社が設立された。明治以後の一部の歴史家は、小栗の処置は「幕府が貿易の独占を図った」と批判する。しかし、幕府へ指し出した「兵庫商社」建議書に、商人一人一人の損失ではなく、「全国の利権を失し」「御国の損失」となって外国商人に操られる国になってしまうことを恐れたことが記されており、小栗は商社組合に資本を集めて外国商社に対抗すれば、外国商人の「前貸し支配」によって操られていた日本人商人の投げ売り競争を抑制し、外国商人(商社)に独占されている貿易利益を取り返すこともできるとみていた。
「前貸し支配」とは、外国商人が最初は日本産品を高く買い取り、喜んだ日本商人にもっと持ってくるように言いながら、買い付けてくるともう品が余っているからと買い渋り、安く買い叩く。日本人同士の安売り競争で資金不足に陥った商人には資金を前貸しし、次第に個々の商人を外国商社の意のままに操るようになって、ついには一国の経済まで支配してゆくやり方である。植民地支配に慣れたイギリスなどの欧米の商人にとって当たり前の商法だった。
こうした外国資本による簒奪を回避するための兵庫商社であり、さらに商社・コンパニーの利潤をもってガス灯や書信館(郵便)、電信、鉄道の設置をすれば、国民にとっての莫大な利益になると提議する画期的な構想で、役員や定款も備えた本格的なものであった。
大阪中之島に事務所を置いて活動を始めたが、残念なことに半年ほどの活動ののち幕府崩壊に伴って解散してしまったので、写真などは残っていない。




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