小栗上野介と株式会社
 ~遣米使節で見たもの~
 


 遣米使節の旅
小栗上野介が幕末日本の近代化の眼を開く端緒となったのは、遣米使節としての渡米と、世界一周の旅にあった。
万延元年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節として小栗はアメリカへ渡った。コースは米軍艦隊ポウハタン号で横浜~ハワイ~サンフランシスコ~パナマ。パナマにはまだ運河が無かった為大西洋側へ出ると、ロアノウク号でカリブ海を渡ってワシントンに上陸、ホワイトハウスで条約批准書を交換した。
使節は正使新見豊前守、副使村垣淡路守、目付小栗上野介の3人。井伊大老に目付として抜擢されたのが小栗で、このとき34歳。そのほか総勢77名の日本人がアメリカに渡った。
ワシントンでの批准書交換が済むと、フィラデルフィア~ニューヨークへ行き、ニューヨークから最新鋭の米国軍艦ナイアガラ号に乗り、大西洋廻りでアフリカ喜望峰~インド洋~インドネシア~香港と9か月かかって世界一周し、帰国した。
明治政府が始めた学校教育では、この「日本人初の世界一周」は隠され、護衛艦として日本―サンフランシスコを往復しただけの咸臨丸を喧伝してきたので、咸臨丸は知られていても、米艦三船(ポウハタン号・ロアノウク号・ナイアガラ号)を乗り継いで初の世界一周をした使節一行の事は、その子孫ですら誇りとしていない。
 パナマで株式会社を理解
サンフランシスコで帰国する咸臨丸一行と別れ、南へ向かった一行は、万延元年(1860)閏3月5日パナマ港に到着した。パナマ地峡に運河をつくる計画はあったが、まだできていない。大西洋側のアスペンウオールーパナマ間をパナマ鉄道が結んで、人や物資を運んでいた。
ポウハタン号を降りて上陸した一行は、波止場に直結された駅へ案内される。そこには使節一行を歓迎して日の丸と星条旗を掲げた汽車が待っていた。日本人は、ペリーが二度目の訪日に際してお土産とした模型で、すでに汽車の存在は知っていた。その時の模型は子供がまたがって乗れる程度のものだったから、本物を見るのは今回が初めて。
汽車は使節一行が乗り込むと、機関車に日の丸と星条旗をはためかせ、大西洋側へ向かって走り出した。皆初めて乗る汽車だから、その速さに驚いて日記に「道端の草木がしまになって流れて、見分けがつかない」と書き、隣の人と話もできないほど音がうるさいことも記している。
当時の汽車は、前の席は煙くて臭くて、音もうるさいから、上等席は後方の車両だった。後ろに乗っていた小栗の関心は、速さや音よりも、この鉄道施設に要した費用とその調達方法にあった。次のような質問を小栗はしたらしい。
「このパナマ鉄道の建設費はいくらか」「建設資金をどのようにして工面したか」
それに対するアメリカ側接待委員ガルナイの答えは次の通りであった。
「パナマからアスペンウオールまで約70キロ、山を削り橋をかけて完成までの鉄道施設の総費用は700万ドル。資金はアメリカ政府ではない、国内の裕福な商人が資本を出し合って鉄道組合を作り、利用する人から利用費をもらって運営し、利益は資本を出した人に分配する」
当時、こういう組合をコンペニー(カンパニー)と呼んだ。日本が開国して以来、すでに外国商社コンペニーは日本で商取引を行っていたが、それはあくまでも物品の売買の事と思っていた小栗にとって、コンペニーでこうした事業も起こせるのか、と株式会社を具体的に理解した場面である。これなら、幕府はいつも金が無い、金が無い、などと言わなくても、民間資本の活用で新しい事業を興せる。




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