昌幸の沼田領経略
 ~武田氏と北条氏の手切れ~
 


 北条氏の上野上杉領処分
氏政は、5月6日に景虎死去を受けて、それまで景虎から委任を受けていた上野における旧上杉領国の支配について、改めて北条氏があたることを明言し、旧上杉領国における所領の配分を決定した。そこでは、由良氏が経略していた深沢・五覧田については、旧領主河田重親から割譲させている。
次いで8日、小田原に在府していた氏邦は、同じく小田原に参府してきた河田重親に書状を送り、氏政から河田氏の進退を保障する旨の通達があったことを報せる一方で、越後への対応について相談したいと述べている。これは、氏邦が沼田領支配を管轄し、上杉景勝との抗争を指揮する立場にあったことから、沼田領在所が予定されている河田氏との間で、その関係を確認しておく必要があった為であろう。
そして9日、河田重親は北条氏から、不動山城および旧来の所領を与えられている。その奏者(取次)は北条氏照が務めているので、河田氏は毛利北条氏と同じく、氏照の指南を受けたことがわかる。
不動山城は、かつて御舘の乱勃発直後に、武田方の真田昌幸が八崎長尾氏から攻略したものであった。ここでそれが河田氏に与えられているという事は、その後に武田氏から北条氏に引き渡しがあったことを示している。北条氏がこれを八崎長尾氏に戻さず、河田重親に与えたのは、おそらく、河田氏に沼田城代の地位を約束しながら、それを保護にしたことへの代替措置とみられる。
 武田と北条の手切れ
沼田領では、景虎の滅亡によって、北条氏と景勝方の抗争が終息したわけではなかった。5月21日、氏邦は片野善助に、上野吾妻郡猿ヶ京城での合戦における戦功を賞しており、越後上田庄の景勝方から同城に攻撃があった事がわかる。北条氏と景勝との、沼田領をめぐる抗争は継続していたのである。
6月10日には、氏邦は猿ヶ京衆の田村与五郎に対し、猿ヶ京城在番を命じており、その守備体制を固めている。その奏者は宿老富永助盛が務めているので、富永助盛が実際に沼田城に在城し、沼田領の防衛を差配していたとみられる。
そうこうするうちに、武田勝頼と北条氏政との対立は不回避となり、7月24日、勝頼は佐竹義重は武田氏との連携のため、北条方の常陸小田口に出陣していった。
さらに勝頼は、東上野に在所する旧上杉方武将の調略を進めている。8月16日以前に、厩橋毛利北条高広は北条氏から離反して武田氏に寝返っており、同城に居留していた河田重親、毛利北条高広の娘婿であった今村那並顕宗もこれに同調している。
そして8月20日、武田勝頼は駿河の北条領国に向けて出陣、27日には相模・甲斐境目で両国の戦争が近いと噂されている。武田氏は9月3日以前に、駿河沼津城を構築、対して北条氏もいずの防衛を固めるため出陣を決定し、下総千葉邦胤に来る9月7、8日の小田原への参陣を命じるなどしている。
 対立激化
氏政は勝頼との対戦にあたって、遠江徳川家康との盟約をすすめ、9月4日には家康の使者朝比奈泰勝が、小田原から浜松城に帰着している。言うまでもなくその使者は、それ以前に盟約の相談のため、家康から氏政のもとに派遣されていたものであった。そして来る17日に手合わせすることが取り決められた。
このように、勝頼は北条氏と敵対する常陸佐竹氏らと結び、氏政は武田氏と敵対する徳川氏と結び、互いに遠交近攻策をとって対抗し合うことになった。さらに氏政は、自身の使者と弟氏照の使者を近江安土城の織田信長のもとに派遣し、その使者は9月11日に安土城に到着している。これは氏政が、家康の上位権力として存在していた「天下人」織田信長との連携を図ったことを意味している。
そもそも武田氏は、前代の信玄の晩年以来、織田・徳川両氏と激しい対立関係にあったから、ここで氏政が勝頼に対抗するにあたって、家康だけでなく信長に接近することは、当然のことといえる。
9月17日、北条氏政は家康との約束通り、伊豆に出陣し、三島に在陣した。そして武田方の沼津城への向かい城として、泉頭城・獅子浜城を構築し、対抗した。徳川家康も、その日に遠江掛川城から駿河に向けて出陣した。
こうして武田氏と北条氏は、御舘の乱を巡る対応のすれ違いから、決定的な対立状態になり、ついに同盟関係を破棄し、全面的な抗争を展開していくのである。




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