昌幸の沼田領経略
 ~上杉景虎滅亡~
 


 武田と上杉の関係悪化
武田勝頼は、北条氏政からの要請に従って、景虎支援のため越後に進軍したものの、勝頼にとっては、駿河・遠江における徳川氏との抗争の方が重要であった。勝頼が、景虎と景勝の和睦を仲介する体をとりつつも、景勝と和睦を結んだのは、本心としては御舘の乱への介入を避け、一刻も早く帰国したかったからと考えられる。
景勝にしてみれば、勝頼との和睦は願ってもないことであるから、両者はその関係の継続を選択し、12月23日、遂に勝頼と景勝は縁組交渉を進めるのである。これは単なる和睦の域を超えて、同盟を結ぶことを意味した。
これは氏政には相談のなかったことと見られ、当然ながら氏政に勝頼に対する疑念を生じさせたようである。翌天正7年(1579)1月7日、氏政の嫡子氏直は、武田勝頼に年始の書状を送っており、今だ武田氏との同盟は継続されている一方で、28日には北条氏照が、徳川家康に書状を送っている。これは北条氏が、武田氏と抗戦する徳川氏に明確に接近したことを示している。
そして勝頼も、これに対抗するように、2月2日、宿老の内藤昌月を箕輪城代に任じ、西上野領国の支配体制を強化している。武田氏の西上野領国は、昌幸が管轄する吾妻・白井領と、箕輪城が管轄するそれより以南の地域に大きく区分されていた。箕輪城代の地位は、天正3年の長篠合戦まで、内藤昌月の父昌秀が務めていたが、同合戦で戦死後は、兄の工藤長門守や武田氏御親類衆の板垣信安が代行を務める形になっていた。ここに勝頼は、恒常的な箕輪城代の任命を行ったのである。これが北条氏の備えである事はほぼ間違いない。
 景勝、景虎を滅ぼす
2月に入り、越後における景虎と景勝の抗争も最終局面を迎え、景勝方の優勢が明確になりつつあった。そして23日までのうちに、上田庄における景虎方の前線拠点であった蒲沢城。さらに荒砥城・直路城などが次々と落城してしまい、在城していた毛利北条高広・河田重親らは上野への後退を余儀なくされた。
24日、氏政は伊豆韮山城に在城する宿老清水康英に書状を送り、上野出陣予定を伝えるとともに、伊豆で「雑説(風評)」が流れているが武田氏が行動してくることはないこと、動揺を生じさせず韮山城の防備を固め、落ち着いて境目(国境)の守備にあたるよう指示している。このことから、すでに北条氏と武田氏の国境地域では、両者の手切れの「雑説」が流れ始めたことが伺われる。
そして3月27日、景虎方の前関東管領上杉憲政が景虎・景勝停戦の調停に乗り出すが、逆に景勝方に殺害されてしまい、御舘も落城した。景虎は脱出して鮫ヶ尾城に逃れるが、24日にその鮫ヶ尾城も落城し、景虎は自害した。
ここに御舘の乱は景勝の勝利が確定し、景勝は戦国大名上杉氏の当主としての地位を確立させるのである。そして景虎方であった上野在国の上杉方武将の、厩橋毛利北条高広・河田重親・今村那波顕宗・小河可遊斎らは、景虎滅亡を受けて、改めて北条氏に従う立場をとる事になった。
 北条氏政の深慮
そうしたなか、4月12日に氏邦が越後衆への対応について、兄氏政から叱責されるという事態が起こった。北条本家の直臣たるものを氏邦が自分の家臣のように扱っていること、それを一所にまとめて配置したりしていること、在郷を切望しているものへの処置がよくなかったこと、なかでもとくに「大石某」という人物を、氏政が承認していないにもかかわらず氏邦が手元に召し寄せたことで、その人物に疑念を抱いていた河田重親や、そのものを不忠人と非難する毛利北条高広らとの紛争が絶えず、そのため上杉家中に緩みが出ていたこと、そうした人物に配慮することは無用であり、咎の無い忠臣のものに配慮すべきである、などが注意されている。
氏政から見て、氏邦の上杉方武将への対応には不適切なところがあると映っていたらしい。しかし氏邦からすれば、北条方の先陣の大将として、彼らを軍事指揮しなければならず、その結果の事であっただろうし、また、上野への帰国後は、氏邦が沼田領支配の管轄を委ねられたにもかかわらず、もともと同領に存在した彼らの所領などの取り扱いがいまだ明確に取り決められていなかったことも理由にあったとみられる。




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