昌幸の沼田領経略 ~沼田を窺う景虎と北条氏~ |
7月5日になると、景虎方の北条高広・景広父子が、越後上田庄に向けて侵攻している。上田庄は景勝の実家上田長尾氏の本領である。恐らくその過程で、三国街道上の猿ヶ京城を攻略したことは確実と見られる。 絹川に在陣していた氏政は、ようやく7月6日に下総結城陣から退陣し、長尾景憲に書状を送って、明日軍勢5千を上野に進軍させることを伝えている。 北条軍はそのまま上野に進軍したようであり、12日には、北条氏は上野小泉領の国衆富岡氏に、軍勢の乱暴狼藉禁止を保障する掟書を与えている。そして17日には、景虎方の河田重親らが沼田城の攻略に成功している。これにより沼田領は、景虎方の勢力下に置かれるとともに、河田氏らも越後に進軍していった。そして8月6日、景虎方の北条高広・河田重親・後藤勝元らは越後上田庄に侵攻し、坂戸山宿城を攻略している。 その後、彼らは景勝方の上田庄の拠点である坂戸城に向けて進軍し、その途上にあった荒砥城・直路城・蒲沢城を相次いで攻略した。対して景勝方は、坂戸城に籠城することになる。蒲沢城はそれへの前線拠点となり、北条高広・河田重親らが在陣した。
こうして北条軍は、いよいよ越後への進軍を目指していく。そして先行して信濃から越後に進軍していた武田軍と協同作戦をとるはずであった。 ところが武田勝頼は、6月24日には、景勝方から持ち掛けられた和睦に応じる旨の返答をしており、7月23日には春日山城に到着したものの、景勝・景虎の和睦調停に乗り出していた。そして8月19日には、勝頼は景勝・景虎との和睦を成立させ、景勝と起請文を交換している。ただし、これは勝頼が一方的に景勝に味方するというのではなく、あくまでも景勝・景虎両者の和睦が基本であり、両者の和睦が破棄されたら、双方への支援は見合わせる旨が強調されていた。 しかし、そもそも両者の和睦には無理があった。ちょうど北条氏本軍が白井領に進軍した時期にあたる8月28日には、景勝・景虎の和睦は破断し、それを受けて勝頼は帰国してしまうのである。北条軍が越後に進軍するのはその後の事である。 9月9日、北条氏政は上野国衆の富岡六郎四郎に、北条氏邦に従って上野庄に進軍することを命じている。ここから、北条軍の先陣として越後に進軍した事がわかる。氏邦は越後に入ると、毛利北条高広・河田重親に合流し、蒲沢城に在城した。 こうした北条軍の動向を注視していたのが、真田昌幸であった。
景虎が沼田領の支配を北条氏に委ねた当初は、氏邦がその任に当たっていたようだ。しかし年貢納期を迎えるにあたって、景虎は沼田城の管轄と沼田領支配を、蒲沢城に在城している河田重親に委ねることとした。そして、河田と同じく蒲沢城に在城している北条高広に対し、沼田領における上杉氏直轄領からの年貢を、御舘の景虎の元へ進上するよう命じている。これは景虎が、沼田領支配のために河田重親に同領への期間を支持したものと理解される。またこのことによって、上野における上杉領国は、あくまでも景虎の支配下にあり、北条氏は景虎からそれを預かっているに過ぎないという建前だった。 しかし氏政の戦略は景虎とは異なっていた。11月16日に氏政は、蒲沢在城の後藤勝元に書状を送り、来年春の雪解けの時期まで、毛利北条高広とともに同城維持に尽力するよう指示している。この頃、蒲沢城では籠城戦を展開していたようで、氏政は景虎方武将による同城の維持を優先して考えていたとみられる。 12月9日には、氏政は河田重親に書状を送って、景虎の方針を尊重して沼田城代に任じることを確約する一方で、配下の軍勢については一人も沼田城に置かず、蒲沢城の守備に充てるよう指示している。氏政は、坂戸城攻略は来年の雪解けを待って行うこととし、それまで景虎方武将には蒲沢城などのいじにあたらせて、北条軍については上野に帰国させることとしたのであった。その通り10日には、北条氏邦が上野に後退していることが確認される。 この後、沼田城は氏邦が管轄することになり、実際にはその宿老の富永助盛が在城した。 |