昌幸の沼田領経略
 ~御舘の乱~
 


 御舘の乱
真田昌幸と北条氏邦による上野沼田領を巡る抗争の原因は、天正6年(1578)から翌7年にかけて起きた「越後御舘の乱」にあった。これは、天正6年3月13日に越後国の大名上杉謙信が死去したあと、上杉氏の家中を二分して展開された内乱である。
謙信が死去した当時、武田氏と北条氏は同盟関係にあり、両者は上杉氏とは対立関係にあった。他方で武田氏は、東海地方で遠江・三河の徳川家康、そしてその上位者として存在していた「天下人」織田信長と対立関係にあった。一方北条氏は、関東では、上杉氏と結ぶ常陸佐竹氏・下野宇都宮氏・同那須氏・下総結城氏などといった「東方一統勢力」と対立関係にあった。
謙信には実子がなく、二人の養子の景勝・景虎がいた。謙信死去から11日後の3月24日、養嗣子の景勝が本拠春日山城の本城に入って、上杉家の家督を継いだ。しかし代替わりにあたって家中で所領を巡る争いが生じ、5月13日になってもう一人の謙信の養子景虎が反景勝派に擁立され、春日山城を退去して、御舘(謙信の養父で前関東管領山内上杉憲政の館とされる)に籠った。
 上野でも抗争が展開
内乱の勃発にあたって景虎は、実兄の北条氏政や、上野在国の上杉諸将に支援を求めた。このとき氏政は、下総絹川に在陣中で、佐竹氏ら「東方一統勢力」と対陣中であったため、同盟者であった武田勝頼に、越後への進軍を要請した。これを受けて勝頼は、天正6年3月29日には先陣を越後に向けて進軍させた。
この時点での上野における上杉方勢力は、沼田領・厩橋領・大胡領とその近辺に過ぎず、西上野は武田氏の領国、東上野のうち厩橋・大胡領以外は、北条氏に従属する国衆の領国になっていた。
沼田領の支配拠点は沼田城で、同城には上杉家の宿老河田重親・上野家成が城将として在城し、領内の小川城には国衆の小川可遊斎、八崎城には国衆の長尾憲景があった。厩橋城の支配拠点は厩橋城で(前橋市)、同城には宿老毛利北条高広・景広父子があり、大胡領の支配拠点の大胡城にはその一族の大胡高常があった。またその近辺には、那波郡今村城(伊勢崎市)に国衆の那波顕宗、勢多郡女淵城に越後衆の後藤勝元などがあった。
景虎が春日山城を退去する以前の5月7日には、景虎方の厩橋毛利北条高広が立場を明確にしていない長尾憲景の八崎城を攻撃しており、早くもその頃には上野においても上杉家中の分裂が展開されていた。5月18日には沼田城衆が景勝方の吾妻郡猿ヶ京城を攻撃したが敗走している。こうして上野でも、両陣営の構想が本格的に展開されていくことになる。
 上杉領を窺う昌幸
こうした状況を受けて、いち早く反応を見せていたのが武田氏であった。
5月23日、武田氏は両陣営の構想のため沼田領の在所から退去した原沢惣兵衛に対し、沼田領経略後に所領を与えることを約束しており、武田氏が早くも沼田領経略を企図していたことがわかる。そして6月3日には、上杉方長尾憲景の属城である不動山城を武田方が攻略している。長尾憲景と対立していたのは吾妻領・白井領支配を管轄している真田昌幸であったから、同城を攻略したのは昌幸であることは間違いない。
既に長尾憲景は、6月4日以前に北条方の上野国衆の金山由良成繁・国繁父子を通じて、北条氏への服属を打診していたところであったから、不動山城が昌幸に奪われると、すぐにそれを由良氏父子に連絡した。そして由良父子は、北条氏政の支持を得てであろうか、4日に不動山城に目付を派遣した。目付は双方の状況を検分し、7日に帰省したという。そして不動山城の状況は、長尾憲景から報告がされたらしい。憲景が北条氏に従属していたとしたら、昌幸の行動は北条氏にとって由々しき事態であった。
これを受けて氏政は直ちに武田勝頼に昌幸の行動を抗議したのであろう。勝頼は同月29日に昌幸に、昌幸が沼田領を窺っていることについて氏政から抗議があったことを伝え、以後行動には注意するよう指示している。
これはいうまでもなく、昌幸による不動山城攻略のことを言っているのだろう。昌幸は、上杉氏の内紛の展開に乗じて、対立する八崎長尾氏領経略を進めようとしたのだろうが、長尾氏が北条氏に従属したため、その動きは一旦停止させられることとなったのである。




TOPページへ BACKします