真田昌幸の天正攻防録 1・真田昌幸の沼田領経略 猿ヶ京城の攻略 |
猿ヶ京城攻略を目指す |
沼田城の攻略に失敗した昌幸はどのように動いたのか。昌幸は、小川氏への支援を行う一方で、北条方の最前線になっていた猿ヶ京城の攻略を進めていったとみられる。 4月23日、武田勝頼は小川氏重臣の小菅刑部丞に、小川可遊斎から要求のあった援軍を派遣したことを伝えている。そして5月4日、昌幸は沼田領猿ヶ京の土豪中沢半右衛門尉に対し、猿ヶ京城の三之曲輪を焼き払った功績を賞し、所領を与えている。昌幸が現地の土豪中沢氏を味方につけて、猿ヶ京城の攻略を進めていたことがわかる。 さらに6日、昌幸はこの中沢半右衛門尉と、猿ヶ京城膝下の須川の土豪であった森田又左衛門尉に対し、調略によって猿ヶ京城を攻略した功績を賞し、中沢氏に沼田衆恩田伊賀守の旧領を、森下氏には小川可遊斎に所領として与えることを約諾していた地を、所領として与えている。おそらく小川可遊斎には、猿ヶ京城の攻略のうえで、猿ヶ京を所領として与えることが約束されていたが、森下氏が服属してきたため、その要望を優先して、森下氏に与えられることになったのであろう。そのため小川可遊斎には替え地が与えられることとされたのだ。 |
主要街道を制圧する |
上記の通り昌幸は、先に小川氏を従属させ、さらに猿ヶ京城を攻略したことで、沼田領から越後に通じる主要街道であった、清水道(湯原関)・三国道(猿ヶ京関)の両方を制圧することに成功した。 沼田城は、この両街道を束ねて、上野中央部に通じる位置にあるという地理的特徴を持っていた。さらに沼田城から東に進むと、陸奥国に通じていた。沼田城は、いわば関東中央部と北陸及び陸奥を結ぶ動脈の結節点になっていたのである。 沼田城の政治的重要性は、まさにこの点にあったといえる。昌幸は、関東と越後を結ぶ街道を制圧し、沼田城の持つ特性の主要な側面を制約することに成功したのである。 |
昌幸、可遊斎を猿ヶ京城に在城させる |
5月19日、昌幸は小川可遊斎に対し、「当地(猿ヶ京城?)」への在城を命じている。これにあたって昌幸は可遊斎に、同城近辺の所領の借用を申し入れており、相又村・宮野村以外について可遊斎が借用を了承したことを賞している。ちなみに相又・宮野両村はいずれも猿ヶ京城膝下の地にあたる。 昌幸が可遊斎を猿ヶ京城に在城させる一方で、同城周辺の所領について借用を申し入れた理由は、同城に可遊斎以外の昌幸家臣も在城し、彼らへの所領を用意する必要があったからと考えられる。可遊斎は、膝下に位置した相又・宮野両村以外についてはそれを了承したというから、それ以外は昌幸が管理することになったのであろう。 さらに昌幸は可遊斎に、沼田城を攻略した後には、借用した地を速やかに返却する事、また、森下氏以外と思われる須川衆のうち、今回の猿ヶ京城攻略において忠節を働いた13人の抱え地(年貢負担地)についても安堵する事、等のことを認めている。 昌幸は小川可遊斎に、猿ヶ京攻略後に、同地を与えることを約束していたのであろう。さらに須川衆が攻略に尽力していたこと、しかもそれへの功賞が可遊斎に約束されていることからすると、同城の攻略には、可遊斎も在地の土豪を調略してそれに尽力していたことがうかがわれる。 |